空と海と太陽と ( 05 )
「あれが、氷帝学園の跡部だ」
「―――跡部」
示された先に立つのは、優美で繊細な姿。まとう空気すら違って見えた。手塚と共に一年の頃から頭角を現していた有望な選手だ。すでに夏の大会の折にその名を聞いていた筈なのに、記憶にはない。手塚にとっては他校の選手を一個人として覚える気がなかったからだ。
同時に己の事で手一杯だったという事もある。ただひたすらに、がむしゃらに、己を鍛え上げてきた。「やりすぎだよ」と大石に注意されても、「大丈夫だ」と言い切って。
背が伸び、腕が伸び、足が伸びる。筋力が増し、脚力が増し、技と経験は積み重ねられていった。ここで限界だと、制限をつける事がその先の可能性を否定するものと考えていた。限界の先に得るものがあると鍛えていけばいく程に、望む自分へと近づいていけると考えた。
一年の冬は、二年生達が主体だった。二年の春から夏にかけては、立場がすでに逆転していた。自分の後ろに付いてくる者が居るのだと、いつしか知るようにはなっていったが、それでも自分に求められるものは最強であること、負けぬ事、それであると思い込んでいたのかもしれない。
成長期の体に過度で過剰な負担は受け止めきれるものではなかった。酷使し続けた肘はいつしか悲鳴を通り越し、壊れた。違和感を感じていなかったわけではない。だがその事と、一年前との事件を結びつける事を敢えて手塚は避けていたのかもしれない。
手塚と武居の間にあった事件は、テニス部内ではタブーとされた。教師達の中でも、新たに青春学園に来た者達は知らないだろう。部内においても、あの場に居た者達だけが、その事実を知っていた。
だが、年が変わる頃に武居がテニス部を退部した事と、前部長である大和が手塚に謝罪をしたという事は、部員達の間で知られる事で。その事が長く緊張関係にあった手塚と武居の二人に関わる事であると、何となく皆気づいていた。そして、その事について追及をしてはいけないと、皆が理解していた。
「――手塚っ!」
「・・・・・・・・ぅ」
心配気な声に誘われ、重い瞼をどうにか開く。全身が重く、鉛と化したかのようだった。
「良かった。気が付いたかい?」
「・・・・・・おお、いし・・・・っぅっ・・」
「手塚っ!しっかり!今、救急車を呼んだから!ど、どこか骨が折れてたりする?い、息は大丈夫かいっ?」
「・・・・・・だい、じょうぶ、だ。あまり、大声を、出さないで、くれ。・・頭が、重い」
「あ、ご、ごめん。だ、駄目だよ、起き上がらない方が良い」
「――――」
身を起こそうとした手塚の身を大石が留める。体が動く事を確認したかったが、あまりに心配そうな様子に無理を通すのを諦めた。
冷たい石の上に寝転がりながら、全身を確認する。痛みは体の節々を襲っていたが、吐き気の類はない。右手の指は動く。左手も動く。右足も、動いた。左足も、問題なし。
幼い頃より祖父に仕込まれた武道が、役に立ったようだ。咄嗟に受身を取ったらしい。感覚的に骨折をした風には感じられないので、多分打ち身だけで済んだと思う。不幸中の幸いか。
首を曲げ、見上げた先にある階段。あそこから落ちて――いや落とされて、無傷とは言わぬまでも大きな怪我がなかったのなら、喜ぶべき事だろう。当然、精密検査をする事にはなるだろうが。
あそこまで、制御の効かぬ人物だとは思わなかった。確かに、愚かしいとは思っていた。尊敬など抱けぬ相手であると。だがここまでやってくれるとは。いや、本当はとうにわかっていた事なのかもしれない。もっと早くに――切り捨てるべきだったのだ。
大石がその場に来たのは偶然ではなく、手塚の姿をそこで見かけたと、聞いた為に駆けつけて来たのだという。それは、僅かに残った良心から発したものなのか。しかしそれだからといって、許せる話ではない。もう、そんな状況は通りこしていた。
検査の結果も問題はなく、それでも数日は安静にしていること、と医師より注意を受けたが、手塚としては大人しく寝ているつもりにもなれずに翌日から部活に参加した。
さすがに、練習には参加させて貰えなかったので、見学という形にはなったが。手塚は、武居がそれこそ死にそうな程の青い顔で素振りをしているのをじっと見据えた。
『階段を踏み外した為の転落事故』であると、手塚は押し通した。
庇ったわけではない。そんな気などない。ただ考えるだけの期間を、自ら決断する為の時間を、与えただけだ。もしここで、再び目を逸らすだけだとしたら、今度は手塚も容赦するつもりなどなかった。
武居が居なくなった後は、手塚につっかかろうとする者もなく、表面上は平穏が訪れた事となる。だが、武居を辞めさせたのが、手塚という存在であると、誰も疑う事ではなかった為に、ある種の圧力が手塚にかかっていく事となった。
それゆえに、手塚はより頑なになってしまったのかもしれない。「そうじゃないだろ」と、どこかで諌めるような声が聞こえたような気がしたが、手塚は一度進んでしまった道から外れる事ができなかった。
夏をまたいだ全国大会への道は、その年の青春学園は進む事はできなかった。歓声を上げる氷帝学園の大応援団を前に、手塚は遠い物を見るような目でその光景を見ていた。
秋に招集されたJr選抜も、辞退するしかない状況で、ただしそこで得られた時間は手塚の頭を冷やすのに充分なものだったかもしれない。
秋から冬に。時が緩やかに流れていく中で、手塚は初めてこの仲間達と、青春学園として全国大会を制覇したいと、思うようになった。
随分と回り道をしたような気がする。もっともっと早くに、気づくべきだった。そうであれば――また別の道を歩いてこれたのかもしれない。だが、後悔するものであっても、これが手塚の歩んできた道だた。選んできた道なのだ。
青春学園という名を背負う自覚ができてから、周囲に向ける目も変化してきた。今まで意識の範囲にも入らなかった者達へと、視点が合うようになった。
氷帝学園の跡部景吾。氷帝学園とは、何度か対戦した筈であるのに、改めて彼の姿を見るのは初めてのような気がする。手塚の呟きのような言葉を耳聡く拾った跡部が、くるりとこちらを向き直る。瞬間、周囲の視線が圧縮されたかのような圧迫感を得た。
大した注目度だな、と感心する。手塚本人も常に人の注目を集める事に慣れているが、跡部のそれは奇妙な吸引力を持っている。興味本位の視線の中に、紛れるは氷帝学園の生徒達のものらしき、絶対の信頼。それは、酩酊感すら伴っているようだった。
一瞬絡み合う視線。蒼の双眸は、頭上に広がる澄み渡った空と同化するかのようだ。
この目を知っている。この空を知っている。この光輝く太陽のような男の事を、手塚は知っている。奇妙な確信と、それは今更だろうと、跡部の名ならば知っていて当然ではないかと、内から沸く己を諌める言葉に混乱する。ただし表面上は跡部の挑戦的な視線を超然と受け流しているかのように、見えていたようだ。
ふん、と鼻で笑うようにして跡部の方から視線を外した。そのまま脇を通り抜けようとした瞬間、手塚の鼻腔を潮の香りが擽った。
発作的に擦れ違う細い腕を掴む。それは衝動が思考と結びつく間もない、反射的な行動だった。
「―――んだよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「ってぇな。喧嘩売ってんのか?」
「す、すまない」
じろりと睨む手に慌てて手を引っ込める。力を込めすぎていたようだ。触れた瞬間の手首からも感じられる筋肉の張りは、跡部がパワープレイも容易にこなすと知らせてくれるもので、実際のところは大仰に手首を振るような痛みは伴ってはいないように思える。それでも、手塚の行動は意識せずもので、礼を欠いたのは確かである。今現在も混乱中で、自分の行為に説明すらできぬ状況だ。
「て、手塚?」
立ち尽くしたままの手塚に、心配そうな大石の言葉がかかる。
「大石。悪いが、先に行ってくれないか」
「え、いや、だけど」
「頼む」
「・・・・・・・・わかったよ」
説明を求める目を向けながらも、この場は収めて後にしようと大石は思ったようだった。感謝してもう一度「すまない」と伝える。
「おいおい。そこの、苦労性っぽいオトモダチは心配してんだろ?少しは言葉ってもんを使えよな。青学の大石、だったか。安心しろよ。ところかまわず喧嘩売ったりなんかしねぇよ。これでも氷帝学園を背負っている身なんでな」
薄く笑う跡部の顔は、喧嘩っ早い者からすれば勘に触るものだろう。だが大石は温厚で知られる人物であるし、手塚は衝動的に動く事には慣れていない。
「跡部、景吾」
「・・・・・・・んだよ、『手塚国光』」
「俺を知っているのか」
「はぁ?てめぇ、俺様を何だと思ってやがる?対戦校のレギュラー陣を覚えてもいねぇ抜け作だと思ってやがるのか?しかもてめぇは今期の部長だろ?」
「ああ、まぁそうだが」
「・・・・・・まさかてめぇ、この俺様を知らなかったとか抜かすつもりじゃねぇだろうな」
「――――」
すまないそのとおりだ今初めて意識した。――と言える空気ではない。さすがの手塚とてもその程度の気配は読める。そして跡部はさらにその上をいくというか、随分と察しの良い人物であるようで、手塚の心の動きをほぼ正確に読み取ったようだった。眇められた視線に剣呑さが増した事からも知れる。
「て、手塚、ちょっと」
「ちっ。天下の手塚国光健在ってことかよ。おい、きちんと覚えておけよ。次に対戦した時に、てめぇらの事をを叩き潰してくれる相手の事ぐらいはよ」
「俺は負けない。いや、俺達は負けない」
「ああそうかよ。用事がそれだけならもう行くぜ。てめぇの相手をしているのは時間の無駄だ。秋の如く肩透かしくらうだけのようだしな」
「秋、――選抜の、事か」
「ま、てめぇにも事情があんだろうけどな」
ちらりと向けられた視線は一瞬手塚の肘へと走った。外には決して洩れていない筈の手塚の肘の事を何故知っているのか。いや、ただの勘かもしれない。けれども跡部ならば、察して不思議はないような気もした。
手塚が不参加となった選抜に、跡部は参加していたようだった。その実力からいえば当然かもしれない。跡部もまた、全国区のプレイヤーだ。
あれに出ていれば跡部に会う事ができたのか、と思うと今更ながらに残念な気がする。本当に今更の事であるが。けして合うとも思えない性格で、それでいて不思議な程に惹かれるものがある。それは部長という近しい立場から来るものなのか。それとも、跡部景吾という個人の存在に、手塚が興味を覚えているのか。
繊細な風貌から放たれる刃のような舌鋒。しかしそれは、すっぱりと潔さすら感じる小気味良い切り口だ。跡部の持つ厳しさは、ひとつの優しさでもある。
風が、吹いた。近しい距離から漂う柔らかな香り。それは跡部の身から放たれている。女子ならわかるが香水とはな、と呆れるよりも跡部という人物には確かにそういったものは相応しく感じた。だが、先程手塚が感じたのは潮の香り。海の香り。今目の前に立つ跡部と到底結びつくようにも思えない。
「・・・・跡部は冬の海に行ったか?」
「はぁ?」
突然の言葉に跡部が見せた表情は、否定だった。何故そのような事を聞きたかったのかは手塚にもわからない。ただ、問いたかった。
「ないか」
「――答える必要性を感じねぇ」
「答えて欲しい」
「てめぇ、人の話聴いてねぇな」
重ねて問う手塚に、少しばかり嫌そうな表情を浮かべて跡部が身を引いた。手塚にしても突然そのような事を聞かれたら、確かに警戒するかもしれない。
「どうなんだ」
「・・・・行ったかどうかが重要だってのか?ったくよ、まず質問の意図を述べろよな。俺様の貴重なパーソナルデータを安く振り撒く気はねぇんだよ」
「意外にケチだな」
「・・・・・・・待て。そこで何故てめぇが恨めしそうな顔をする。おい大石。こいつは何だ?俺様に難癖つける為に呼び止めたってのか?」
「え?いや、その。俺にもよくは、わからない、かな?あの、手塚。跡部に迷惑をかけるのはやめた方が・・・・」
「・・・・・・・・・・意図か。わからない。何故そう聞きたいと思ったのか」
「手塚?」
「わからないが、意味はあるはずだ。ああ、行ってみればわかるかもしれない。跡部、これから海へ行かないか?」
「行くかよ、ばーか。大体、てめぇが言ったのは『冬の海』だろうが。今は春だ、春。季節ぐらい把握しやがれ」
「春、そうか。では冬になったら海へ行こう」
「―――おい。大石よ。てめぇも難儀な奴とつるんでるみたいだな」
「・・・・・・同情はいらないよ」
妙に優し気な目を向ける跡部に大石はひきつった笑みを浮かべた。
- End -