空と海と太陽と ( 04 )
ガタンガタンと音を立てて落ちてくる缶の音を聞きながら、手塚は静かに自販機の前に立っていた。
跡部の求めに応じ、飲み物を求めて歩いたが記憶の通りやはり自販機は駅につくまで見当たらなかった。銘柄といえば定番の缶珈琲と清涼飲料水、そしてジュースの類が幾つか並んでいる。この時期となるとひと揃えまるまる温かな飲み物で埋め尽くされる事が多いが、この自販機は未だ半々といった品揃えだった。
一人きりになると、体の冷えがことさらに厳しく感じられ、普段は買わないミルクココアを選んだ。続いて、多分無難だろうとCMでも良く流れる缶珈琲を続けて選んだが、ボタンを押した後、どうせならば汁粉にでもしてやれば良かったか――などと思うのは、跡部の嫌がりそうな顔が見たいと思う心から来ているのかもしれない。
そういう嫌がらせの意味からいえば、キンと冷えているであろう炭酸飲料が相応しいのかもしれないが、それを抱えて海辺に戻るのは少し嫌であるのと、そこまでの嫌がらせをしたいわけではないという思いもある。
取り出し口に手を入れ、缶を取り出すとじんわりと温かみが手に染みてくる。そのままプルタブを引き抜いて喉に流し込めば、体も芯から温まりそうだ。それでも一応、あまり温度が下がらぬよう懐に缶を抱え込み、手塚は跡部の元に戻る事にした。果たしてあいつは礼の一言ぐらいは口にするのだろうか、と考えながら。
いや、せいぜいが「ありがとよ」とか「ごくろうさん」程度で、それにしたところでその口調に感謝の欠片も感じ取る事はできないだろうと予測がついた。
海辺に戻った手塚は、そこに跡部の姿が見えぬ事に気づく。もしや一人で帰ってしまったのだろうか、と自分勝手な奴だと腹を立てそうになったが、その前に当人の姿を思いもよらぬ位置にて発見する。
こちらに背を向け、静かに立つ跡部の姿は海の中にあった。
海中に潜っていたというわけではない。それは幾らなんでも自殺行為だろう。跡部は海中に足首まで浸した位置で一人佇んでいる。緩やかに揺れる波が寄せては返し、跡部の身に小さな飛沫を立て、撥ねあがっていた。
「――何をやっているっ!」
「よ―ぉ、手塚ぁ。遅かったじゃねぇの。待ちくたびれたぜ」
「駅まで戻っていたんだから仕方がないだろうっ!早く戻れっ!」
「あぁ?別にいいじゃねぇか。気持ちいいぜ?」
ふっと振向き顔で笑う跡部は全く寒気に震えているようには見えない。だが真冬ではないとはいえ冬の海。戯れに水遊びをするような季節では到底ない。
見ている方が寒くなる、と体を震わせた手塚に構わず跡部はまた一歩と深い方へと足を進める。その姿はまるで沖へと惹かれていくかのように見えて、手塚は慌てて抱えていた缶を放り出し跡部を追った。
靴と靴下を脱ぎ捨て、濡れた砂に触れた素足はそれだけで鳥肌が立った。その間にも跡部は先へと進み、すでにその膝あたりまで海中に浸している。一体何を考えてこんな暴挙をしているのかはわからないが、考えるよりも前に体の方が動いていた。
「跡部っ!」
「・・・・・・んだよ。てめぇも来たのかよ。ま、折角海に来たんだ。入らないって手はねぇよな」
「そんな酔狂な奴はお前ぐらいだ。戻るぞ」
「ってぇな。んなに引張るなよ。ほら、向こうじゃ見れない光景だろ?ゆっくり満喫しようぜ」
「・・・・・・・・・そんな余裕があるか」
ふっと柔らかな笑みを向けた跡部が、軽い調子で手塚の背の辺りを叩く。思い余って冬の海に身を投じる悲壮さは跡部には見られないが、あまりに穏やかな様子に帰って不安を抱く。
手塚もそう柔な体ではない。幼い頃から厳冬の中でも板張りの同情で祖父に鍛え上げられてもきた。冷たい海水にも直に慣れてはきたが、やはり水遊びをするならば夏場に限るだろうとの思いもある。
素足に触れる海水が奇妙なほどの現実感と非現実感を混在させる。より海を感じるというのは確かな事かもしれないが、どうにも心許なさも同時に感じてしまう。
人気のない砂浜は寒々としていた。視界の先にある海原は、何処までも遠く先が見えぬようで、また、水平線の向こうは奈落が如く先などないようにも感じられる。
自分はこの荒涼とした冬の海へと、ただ一人小船を漕いで進もうとしているのだろうか。それは飽くなき挑戦と言えるのだろうか。
「――んな、難しい事ばっか考えてんじゃねぇよ」
「まるで俺の考えている事がわかるようだな」
「大体のところはな。面から透けて見えてるぜ」
「表情変化に乏しいとはよく言われるが」
「見る目ねぇな。そいつら」
「・・・・・・・・・・」
あっさりと、手塚を「わかりやすい」と言い切る跡部の言葉が不思議と心地良い。大和部長も手塚の思考を読み取ってくれることがあるが、それは今の場合とは別の意味のように思える。
ふと、いつも何処か心配そうな視線で自分を見ている目の事を思い出した。チームメイトである大石は、あの事件以降、部での活動中は手塚の傍に居る事が多くなったように思える。完全に解消されたとはいえないあの人達との緊張感が、危険を孕む方向へ進みそうになると道化となってでも止めに入ってきた。
自分を気遣っての事だというのは手塚にも理解できる。小さく無い感謝を当然抱いた。そして同時に呆れたお人好しだな――という感慨も抱いていた。だからこそ、大石ならばこの部でもうまくやっていけるのだろうと、そんな風に思えた。
手塚の実力は確かなものであり、その点においては先輩・後輩に関わらず部員達は皆が認めている。だが、どこかで浮いていた。手塚はいまだ、青春学園テニス部の一員という意味を理解しかねている。
そんな自分をあの人は「青学テニス部の柱」になってもらうと言った。具体的にそれが何であるのか、その事を説明もしてくれないままに。無責任ではないか――と恨み言を言いたくなった事もある。
退部しようとした手塚を大石が止めた。大和部長は退部届けを受取ろうとはしなかった。竜崎先生は、「何があったか知らないが、お前達の判断に任せるよ」と、不介入とした。
彼等は自分に何を求めているのだろうか。そして自分を留めたものは、一体何なのだろうか。
夏を境に青春学園テニス部は世代交代をした。大和部長は引退し、手塚に襲い掛かった武居先輩を含む2年生達が部の中心となっている。けして、居心地の良い現状ではない。あからさまな排斥こそないものの、多少の嫌がらせを受けている。あの時のように直接襲いかかってはこないものの、ある意味ではより陰湿になったと言えるかもしれない。ただし、大石を含め一年生の中からも幾人かが頭角を現してきている。現状は変化しつつあるのだ。
少女のような風貌ながら、底の知れぬ存在である不二周助。いつも何かノートを片手にぶつぶつと不可思議な事を呟いているが、小学生の折からその名の知れた乾貞治。お調子者で落ち着きのないところはひっかかるが、俊敏さと軽妙なリズム感すらある俊敏な反射神経に目を見張る、大石の相棒となった菊丸英二。まだまだ荒削りながら、将来的にはとてつもないパワープレイヤーとなりそうな河村隆。
揃いつつ、あるのかもしれない。何がとは明確な答えを出す事はできないのだけれど。そして、手塚の方向性も、未だ決まりきってはいないのだけれど。強いプレイヤーは好ましい。だが強ければ良いのか。そうだとは近頃は言い切れない。だが、武居達のような存在を容認するような大らかさも、手塚には抱く事はできない。
跡部は、「手塚だから手塚のままで良い」と言った。許す必要はないのだと、彼等を断じろと言い切った。切り捨てるという方向を手塚に指し示したのは跡部が初めてだ。それは更なる恨みを買う事になりはしないか。いや、彼等の恨みを買おうと怒りを増殖させようと、今更知った事ではない、という気持ちも確かにあるにはあるが。
「――許さなくて、良いのか?」
「必要ねぇよ」
「断じて良いのか?」
「切り捨てろ」
「心を思いやれと、お前は言わないのか?」
「んな価値ねぇよ」
どこまでもきっぱりと、はっきり言い切る跡部に迷いはないのだろうか。今の手塚は、目の前を覆い隠していた霧が突風で撥ね退けられたような感覚だ。
手塚をただの被害者であると、誰も言わなかった。彼がただの加害者であると、誰も言わなかった。人を傷つける事は過ちであると、誰もが口にする。暴力をもって解決できる事など何もないと言い切る者も居る。それでいて、子供同士の喧嘩であると、笑いながら軽んじる大人達が居る。手塚と武居の諍いの件は、部内だけの話として留められていたが、どこから洩れたのか中等部の教師達も耳にする事となったようだ。たまたま職員室に用があり中に入ろうとした手塚は、教師達の間で交わされた会話を耳にしてしまった。
「手塚も頑なな所がありますからね」
「先輩を立てるという事を覚えてくれれば良いのですが」
「あの子の才能は素晴らしい。あとは周りに合わせて自分を抑えてくれる事を願いたいですな」
軽い笑い声に、扉にかけて開きかけた手が止まる。この人達も、手塚に非があると判じているのだと。手塚が武居の行為を誘発したと言っているのだ。
全ての人物が手塚を否定したわけではない。例えば祖父や父や母。家族に話をすれば、そのまま学校へ怒鳴り込みかねない程に手塚の擁護をしただろう。それは家族であるからという理由ばかりでなく、手塚家において、許される範囲内から外れた事象であるからだ。
「――俺には、ラケットで人を傷つけるという行為が信じられない」
テニスが好きで。飽くる程に浸っていても、それでもなお焦がれる程にテニスが好きで。そのテニスを冒涜する行為としか、どうしても思えない。発作的な行為であると、軽挙であったと、どうして言えるのだろうか。
「だから資格なんざ、ねぇんだよ。同じ位置で物を見てると思うな。そいつは違う。同じ視点で物を見る事はねぇ。子供だから考え無しだと、そんなんは理由になるわけがねぇ。子供にもわかる理屈が理解できねぇ奴だ。そりゃぁな、誰だって間違いを引き起こす。他人を傷つける。馬鹿な事をやっちまう。恥知らずな行為だって、せざるを得ねぇ時もある。自尊心は持たなくなったら終いだろ。負けたくねぇ、その思いがなけりゃ、生涯負け犬だ。強くなりたい。認められたい。虚栄心だろうが何だろうが、高みを目指す原動力は人それぞれだ。だがな、認める事ができねぇ奴に先はねぇ。怪我の大小有無じゃねぇんだよ。青春学園テニス部としても、そいつを抱えたままってのはピンを引き抜いた手榴弾を握りしめてるようなもんだ。いつ爆発するかわからねぇ。危険だから排除する、そういう意味じゃねぇんだ。そいつにとっちゃ、目障りな奴だから排除する。それだけの軽い気持ちしかねぇんだよ」
「――まるで、精神鑑定医のような事を言う」
「ふん。勘に触ったか?腹が立つか?そりゃぁな、てめぇが考えて、抑え込んできた考えを俺様があっさり口にしたからだろうよ。何も知らぬお前が何を言うかと、怒鳴りつけたいだろ?腹が立って仕方がねぇだろ?溜め込んで、飲み込んで、他人に合わせようとしても無駄なんだよ。てめぇは手塚国光だ。それ以外の存在にはなれねぇ」
「――まるで、俺が融通の効かない頑固者のようだ」
「そのままだと、言ってんだよ。そいつらを煽ったのは、確かに手塚よ、てめぇだ。てめぇの頑なな信念が、そいつらを刺激し続けてきた。奴等にとっちゃ、てめぇの信念なんざお綺麗すぎる夢物語だろうよ。そもそもの視点が違う。そいつらも、確かにテニスが好きなんだろう。焦がれちゃいるんだろう。だがな、テニスを好きな奴が、誰もがテニスプレイヤーとして在れるわけじゃねぇんだ。そいつは己を抑えられなかった時点で、資格を放棄した。たった『一度の過ち』じゃねぇ。超えちゃいけねぇラインを超えたって事だ」
「・・・・・・・・・・・・・」
跡部の中には絶対の取り決め(ルール)があるようだった。そして、それは手塚の中にあるそれと限りなく近い。それはつまり、テニスに心底魅入られた、魂までも惚れこんだ者達に共通する絶対のラインなのだろうか。
「だが、すでに終わった事だ」
「終わっちゃいねぇよ。現在進行形だ」
跡部が笑う。何を当たり前の事を今更言うのだとばかりに。
「・・・・・・・テニス部から、排斥しろと?それができたのは、以前の部長だけだろう」
代替わり後の最上級生であるからという理由ばかりでなく、かの行為を咎める事ができたのは前部長である大和部長ぐらいなものだ。だが、彼にとっては青春学園テニス部の存続の方が重きを置いており、一個人のテニスへの姿勢を咎めるような人ではなかった。
また、厳密な意味で言えば、竜崎先生こそが部員達の全行動に責任を持つべきだと言えるのかもしれないが、竜崎先生は知ってか知らずか、この件に関して意見を述べる事は一度たりとてなかった。
今までは、それが竜崎先生の姿勢であると、それとかの件を実は知らないのかもしれないと、そう思った時もある。だが、教員達の会話から考えても、先生は知っているのだ。知っていて、知らぬを通すが最良であると判断したのだ。それは卑怯な逃げと言えるのだろうか。
「違う。断じる事ができるのは、手塚よ、てめぇだけだ」
「――俺が?」
「そいつが一番恐怖しているのが何か、教えてやろうか?てめぇの言葉だ。てめぇの目だ。てめぇの存在だ。てめぇが「赦さない」そう発する意志が、そいつを常に絡めとっている。・・・・・そろそろ、楽にしてやれよ。てめぇの断罪を、そいつは待っている」
跡部は不思議と、彼の事を哀れんでいるかのようだった。あれほど非難というわけではないけれど、断罪した跡部とは思えぬ程に。
「てめぇの悔恨に圧し潰される前に、開放してやれよ。てめぇが抑えこんでるから、そいつも決めかねちまってるんだ。擁護するつもりはねぇよ。ただ、もうこれ以上追い詰めてやるなって事だ」
「・・・・・・・・・俺は何もしていない」
「自覚してはな。無自覚こそ一番質が悪ぃんだよ。中途半端な対応しかしてねぇから、ますます追い込まれていくんだ。てめぇも、そいつもな。怒ってるんだろ?そいつを表に出せ。抑えこむ必要はねぇ」
「――俺は・・・・・」
跡部の言葉に何らかの答えを返そうとした。だがその言葉は、二人の頭上よりも遥かに高く迫ってきた高波に飲み込まれる。
「――まぁ本当は、どれだって正解なんかじゃねぇんだけどな。正しい解答なんざ、あってないようなもんだ。どの答えも正解で、どの答えも間違いだ。正しいだけの間違いもありゃ、間違いだけの正しさもある。ただし、手塚よ。てめぇがてめぇである為に、てめぇの心だけは偽るな。堅苦しいぐらいの頑固さでいっちまえ。てめぇは手塚国光だから、それでいいんだよ」
「――」
待て。そんな禅問答のような言葉では答えの出しようがない――そう言葉を放つ前に――手塚の意識は吸いこまれるように薄れていった。