† 音の鳴る穴 † (日吉&跡部)
ひゅーひゅーと音が聞こえる。
擦れたような・・・・ひっかくような・・・・微かな音を耳にした。
それに気がついたのは、首筋にかかる風に肌寒さを感じた秋の頃だっただろうか。
初めてあの人の姿を見た時。
自分との実力差は明らかなものだったけれど、けして超えられぬ壁ではないと思った。
向こう見ずで己知らずの子供であったあの頃。
小学校に上がる前から、テニスクラブに通っていた。
自覚するより前の幼い頃より叩き込まれてきた古武術よりも楽しくて。
もっともっと強くなりたくて、もっともっと高みを目指したくて。
中学は、近隣でも有名なテニス強豪校である氷帝学園を選んだ。広大な敷地の一角にあるテニスコートは、今まで見た他のどの学校よりも設備が整っており、そしてそこに集う生徒達から発せられる熱気は日吉を魅了した。そんな中で一際輝いていたのが・・・・・・跡部景吾その人だった。
まだか細く小柄な体躯ながら、その身から放たれる球は先輩らしき対戦者を翻弄していた。息の上がった相手に対し、涼し気な顔を崩さぬその様は余裕すら持っていて、あれがこの氷帝学園におけるテニス部で最強のプレイヤーなのだと、誰に教わるでもなく理解した。
その日の夜には、祖父・祖母・父・母・兄の揃った夕餉の席で宣言していた。
『氷帝学園に通いたい』
迷い悩む間すらなく、固い決意は胸の中ですでに固まっていたのだ。
日吉は次男であったから。我を押し通す事ができたのだ。それまで文句一つ言った事のなかった優等生の次男が、初めて口にした我侭に、祖父も祖母も穏やかな笑みをもって容認してくれた。父も母も「好きにしなさい」と言ってくれた。兄もまた、「家の事は気にしなくて良い」と弟の後押しをしてくれた。甘やかされているのだと、自覚したのもこの夜が最初だっただろうか。
氷帝学園に入学して、迷う事なくテニス部に入部し、新入部員の内はコートに立てるわけもなく、素振りと球拾いに明け暮れる日々。フェンス越しに見るかの人の姿は眩しく、己との距離に歯噛みもした。
たった一年。たった一つの年の差でしかないというのに、あの人はテニス部の中心的存在であり、自分はただの新入生でしかない。いつかあの場に成り代わってやると、ぎらぎらと睨むように見据えていた。
同じ日に入部した、自分より少しばかり背の高いチームメイトが、穏やかな笑みを浮かべて「格好良いよね」と憧れるように言うのを見て、甘い奴だと思った。憧憬の対象なんかじゃない。目標などでもない。ただの通過地点・・・・自分にとってはそれでしかなかった。
新人戦が終わり、全国中学生テニストーナメントも終わり、夏を超える頃には世代交代の時期となっていた。
すでにその時点で部を掌握していたのは、跡部その人であったので、監督からの推薦に添うまでもなく、満場一致で部長の座に跡部が就任した。日吉もその点では不満は抱いていない。テニス部随一、全国クラスの実力の持ち主が頂点に立つのは当然の事だ。そして、跡部という人物は己ばかりでなく、指導者としても優れた資質を持ち得ており、留守がちな監督の榊に代わり実質的に後輩達の指導・育成に当たっていたのは跡部であった。
それだけでも驚嘆すべき事だというのに、跡部は秋の生徒会選挙においては他の候補者を寄せ付けず、圧倒的な票を獲得して生徒会長に任命された。成績の方は言うに及ばず、部の活動と生徒会の活動で寝る間も無いのではと思えるような、行事の重なる時期においてすら、跡部の名が貼り出された上位成績者の頂点から外れる事は一度も無かった。
別世界の人なのだと、同じ人間とは思えないだのと、そこかしこで聞こえてくる耳障りな音に苛立った。
同じ人間だ。同じ中学生だ。同じテニス部員だ。そう何度も言い聞かせて、そして思い知るのは圧倒的な実力差。努力が成果とならず、空回りしていく内に同じ学年の奴がレギュラーの座を掴み取っていく。愚かな事だとわかっていても、焦りを感じた。自分はこれまでなのかと、ラケットを捨てようとした事すらあった。
そして、運命の一戦。
関東大会1回戦。氷帝の控えであった自分と、同じく青学の控えであった越前との対決。敗れたのは日吉の方だった。
追い越す事も、追いつく事も出来ずに、跡部達3年生の夏を、日吉の手で強制的に終わらせてしまった。
知らず、涙が流れた。
無念だった。
己の力無さが、口惜しかった。
力を出し切れなかったとは思っていない。全力で戦った。だが、及ばなかった。
彼等は責めなかった。跡部部長は怒らなかった。常と変わらず余裕の笑みをもって、全てを受け入れた。その時程、彼の大きさというものを思い知った事はなかった。
その後、思いもよらず全国大会に出場する事となったが、頂点を極める事は敵わず氷帝学園の全国は終わった。会場から去る間際に小さく呟いた跡部部長の「これでようやく夏が終わるな」、との一言がやけに耳に残った。
あの人にとってはすでに終わった事だったのだろうか。関東大会の初戦で敗れた事で、すでに決着をつけていたのかもしれない。その彼を引きずり出したのは自分達だ。どうしても、あのままでは終われなかった。再戦できるのならば、どんな機会にでも縋りたかった。納得などできていなかった。だから、開催枠での参加という話に飛びついた。けれども、自分達だけでは駄目だった。跡部部長が居なければ、あの人という存在が無ければ、もう一度奴等と戦うなど叶わない・・・と誰が考えるまでもなく明らかな事であったから。
けれどもその全国大会も終わり。夏休みが明ける頃には三年生達は殆ど部の方へは顔を出さなくなっていた。部の運営は自分達2年生が中心となり、そして9月も半ばとなる頃には、監督の言葉により、日吉が部長の座に着く事が決まった。数ヶ月前ならば、それを当然と受け止めていただろう。だが、その頃の日吉には、自分の至らなさが見えており、人を率いていくにはあまりに未熟であると、ようやくながらに理解していた。自分よりも寧ろ鳳の方が部長に向いているでしょうと、監督に進言したのだが、これは決定事項だと取り合ってはくれない。だが、納得できぬままに、そのまま「はい」と言い切る事は出来ず、重ねて言い募ろうとしたのだが、監督は「跡部からの推薦でもある。そして本年からは部長だけではなく副部長も置く事にした。鳳は副部長だ。2人で力を合わせてこれからの氷帝テニス部を支えていけ」と、重ねて言われ、それ以上の反論の言葉など浮かんで来なかった。
そうして圧し掛かってきたのは部長という名。重かった。こんなに重いものを、あの人は平然とした顔で背負っていたのかと、愕然とする程に。
だが自分にはサポート役として鳳が居た。副部長という存在は、跡部部長の時代には存在しなかった。そして日吉は生徒会に関わっているわけでもなく、部の方にのみ専念すれば良かった。それでも・・・・そうであっても・・・・・・・・『跡部景吾』という名は、とてつもなく重かった。
日々に追われるままに季節が巡り、近隣にも有名な秋の祭典氷帝祭も終え、月はいつしか12月となっていた。
この頃には、3年生達の進路はほぼ確定する。高等部への見学会もある。ますます疎遠となっていく。
日吉も部長の座が板についてきた。跡部とは違い派手さはないものの、地道ながらも日々部長としての貫禄をつけつつある。足りない部位は鳳が、樺地が、フォローしてくれていた。きちんとこなしていた。問題など何も起きていない。だが・・・・・・何処からか聞こえる空虚な音は、未だ止む事はなく、常に日吉を苛んでいた。その事を、日吉は誰にも話した事はない。話すべきだと思った事もなかった。
「―――よぉ。相変わらずの辛気臭ぇ面だな」
「跡部、・・・・さん」
「お前、まーた『部長』と言いかけやがったな?」
「そんな事はありません。部長は俺ですから」
跡部の指摘は事実ではあったけれど、日吉はそれを認めず反論した。力が足りない事はよくわかっている。力量不足はもうどうしようもない。だが、今の部長は日吉なのだ。そう言い続けていれば身になっていく・・・・それを日吉は学びつつある。
「ふ、ん。まぁいいけどよ。どうだ?調子は」
「まずまずですよ。気になるんでしたら、顔を見せに来て下さい」
「その内な。それより今日は別件だ」
「?」
にっと笑う跡部の顔は、何か企んでいるような含みのあるものだった。これは警戒が必要なもの―――とよく見知っていた筈なのだが、久々であった為に反応が遅れる。はっと気づいた時には耳元にちくりとした痛みを感じとっていた。
「――――なっ?!」
「誕生日プレゼントだ」
「は?!あなたは、何を・・・?!」
痛みと共に、バチンという音を聴いた。怖る怖る耳元に手を延ばすと、何かが嵌め込まれている。その手の事に疎い日吉でもわかる。耳元に嵌め込むものといえば、ピアスの類だ。あろう事か、跡部はあの僅かな間に日吉の耳に穴を空け、そしてピアスを嵌め込んでくれたのだ。
「・・・・・・・・・・・・なんって、勝手な、事を・・・・・・」
「安かねぇぜ?一応本物の宝石だしな」
「そういう問題じゃありません。第一、こんなものを日頃つけるわけにはいかないでしょう。校則だって・・」
「別に違反じゃねぇけどな。これでも前生徒会長だぜ?校則ぐらい全て暗記している」
「明記されていなくても、容認されるものではないでしょう。大体、人の身体を勝手に傷物にするとはどういうつもりですか!」
「――――――――」
「跡部さん?」
「いや。お前、いい具合に成長したな。んな事口走るようになるとは思わなかったぜ?」
「・・・・・・・・鍛えられましたからね」
笑いを噛み殺している相手を前に、怒りを持続するのが馬鹿らしくなってきた。指で触れた耳元には硬い飾り。贈り物だというそれに礼を言う気にもなれないけれど。
「そいつはやるよ。まぁ、嫌なら外せ。捨てようと誰かにやろうと、俺は気にしねぇ。じゃぁな」
「・・・・・・・・・・・」
それだけ言うと、彼はさっさと行ってしまった。こちらを振向く事すらせずに。
「・・・・・・・・勝手な人だ・・・・」
眩暈を感じつつ、取り付けられた耳の飾りを取り外す。
手の中には、蒼い小さな宝石の飾りが残った。
それからまた月日が流れ。
あっという間に3月となり、卒業式を迎えた。
卒業生代表として挨拶した跡部の言葉に、体育館内ではそこかしこで啜り泣く声が聞こえた。それは女も男も無くて。驚く事でもなかったが、チームメイトの鳳や樺地もまた、溢れる涙を隠そうとはしていなかった。
日吉は、泣かなかった。泣くだろうかと思いもしたが、涙は沸いてはこなかった。悲しくないのか。寂しくないのか。問われれば悲しいとも寂しいとも答える事ができるだろう。だが、それで泣く事はない。
何となく引かれるように、部室の方へと足を伸ばすと見慣れた姿があった。
「―――――跡部、さん」
「ん?何だ。お前も来たのかよ」
「・・・・・・部長が部室に来てはいけませんか?」
「いや?いーんじゃねぇ?」
くっくと笑う跡部の顔は常に無く穏やかで、部長として君臨していた厳しい表情からは随分とかけ離れたものだった。だが、これもまたこの人の一面であると、今では日吉もわかっているし、知っている。
「卒業、おめでとうございます」
「ありがとよ。―――さて、そろそろ最後の勤めを果たしに行くか。ったく人気者は辛ぇな」
よっと体を伸ばす跡部に、どう声をかけようかと考えた日吉は、結局「御武運を」という何か時代めいた言葉を口にした。何となくこの場合にはそれが相応しいように思えたのだ。これから下級生による怒濤の惜別の儀に望むであろう跡部に対しては。
「くっ。確かに戦場に向かうようなもんだな。ああ、日吉」
「何でしょう?」
「穴は塞がったか?」
突然の問いに一瞬呆けたが、すぐに己の耳の事を思い出した。耳に空けられた穴は、放置しておく内に次第に埋まっていった。まだ触れれば少しばかり違和感はあるが、穴自体は塞がっている。
「・・・・・・・・・・お陰様で」
そう答えるのもおかしいような気もしたが、他にどう答えて良いかわからなかった。
「そうか。じゃ、な」
「・・・・・・・・・・・・」
あの時同様、軽く手を振るだけで行ってしまう跡部。その真っ直ぐに伸びた背にかける言葉はない。
ただ。
いつしか鳴り続けていたあの耳障りな音が、聞こえなくなっていた。
穴が、塞がったという事か。
胸の内に空いた空虚な穴が、時と共に塞がったという事なのか。
日吉は己の視界が微かにぶれている事にも、頬を伝う雫がある事にも気づく事なく、小さくなる背を見送っていた。
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5000hit企画第2段。日吉と跡部。
10を話す必要はない。
1を話す必要もない。
1の行動を示せば良い。
跡部にとっての日吉はそういう存在なのです。
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