18.疲れましたが、宿題があります。
ふぅ、と背もたれに背を預け息を吐く。空いた皿が音すら立てずに下げられる。入れ替わりにコポコポと湯気を立てて香りの良い紅茶がカップに注がれた。
食後の口内を涼やかにする爽やかな芳香に跡部は満ち足りた気分を味わった。夜であるのでカフェイン濃度は薄めであるが、食後に合わせて供される為に香りは少し強めのものだ。ここしばらく中国茶に凝っていたらしく、食後に出されるのは茉莉花茶や菊茶の類が多かったのだが・・それはそれで悪くはなかったが、やはり慣れ親しんだ紅茶の方が落ち着くな、と思えた。
食後の腹もひと心地ついたので、カップの残りをぐいと飲み干すと跡部は席を立った。すでに両親・祖父母の食事は済んでいるので残るは跡部一人のみ。あまりゆったりしていると、使用人達の休むのが遅くなるという理由もあった。
廊下に足を踏み出す寸前、跡部の背に「――景吾様」、と声がかかる。
「何だ?」
「お待ちの品が届いております」
「来たのか・・!」
差し出された小包を前に跡部の顔がぱっと花開く。あまり素の感情を表に出すのを良しとしない跡部であるが、ここは気心の知れた自らの家であり、また幼い頃より顔を合わせている相手に今更取り繕っても仕方がない。そんな風に喜色を示した跡部を前に、執事もまた満足そうに笑む。
ずしりと手にかかる重みは結構なものだ。満足気に口元を緩めながら、跡部はガサガサと包みを開く。
「部屋の方に置いてくれて構わなかったのにな」
「それでは景吾様のその御顔を拝見できません。働きには褒美がつきものです」
「・・・・・・・・何、言ってんだか」
しれっとした顔でそんな事を言い切る相手に跡部の顔が呆れたようなものとなる。自分の容姿が整っている事も、その有効的な使い方も充分心得ている跡部であるが、それはあくまで計算づくの上の『効果』であり、ふいに浮かべる素の笑みに価値があるなどとは思ってもみない跡部だ。ほんの僅かな・・・・「ありがとう」と伝えるその一言が、微かに浮かべるその微笑みが、どれほど使用人達の間で報いとなっているのか、本人ばかりが知らぬ事であったりする。
「学園の方でも、下級生の方々に頼み事をして嫌な顔をされた事がありますか?」
「それは、ねぇけど」
だから?と目線で問う跡部に、執事は鷹揚に頷いた。それが答えであるとばかりに。
跡部としては違うだろ?と逆に問いたい。何しろ跡部は生徒会長という、学園に君臨する長という立場だった。そして氷帝学園で最も力のあるテニス部において、最も優れた能力を持ち、また部員達を見事に部長として掌握してきた。元々育ちの良い者達が集う学園だ。素行の悪さで問題を起こすような生徒は居ないし、我の強い奴もそうは(跡部の周囲は例外的に除く)居ない。権力者相手に喧嘩を売ってくるような胆力のある奴もそうそう居ないわけで、跡部の命に逆らう筈もないわけである。
だが、と思い起こすのは、跡部に頼み事をされた際の彼等の反応。それは確かに皆面倒ではなく嬉しそうであすらあって・・そしてその周囲の羨望の視線。多少手間を要する事象であっても、それをこなした後に必ずといって良い程に跡部の前に誇らし気に報告に現れた下級生達。つまりは慕われていると・・・・そういう事なのだろうか。
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
今更ながらに気恥ずかしい思いが沸いた跡部は顔の前に手を翳し表情を抑えて隠す。優秀な使用人である執事は、そんな跡部の反応を見えない事かのように振舞った。これが仲間達であれば、鬼の首でも取ったかのように「跡部〜照れてるC〜」「顔、赤いじゃん」「可愛えぇとこあるやん」なぞと、からかう事は間違いない。
ガサガサと、必要以上の音を立てて包みを引き剥がした跡部は中身を確認する為に視線を落とす。その頃には、不意打ちに曝してしまった反応も治まっていた。
「ふ、ん。よく揃えたな」
「大した手間ではありませんよ」
「ありがとな」
「その御言葉が何よりでございますね」
「―――ばーか」
不要となった包装の始末を頼み、跡部は手に入れた本を抱えて自室の方へと戻った。
ベッドの上に作者別に振り分けて並べていく。その全てが英文、または独語で書かれた洋書であった。半分以上は推理物で少し前に日本で訳語版が発行された本のシリーズものだ。そこそこ気に入ったので、続きを買ったのだがこちらの方は今ひとつな内容で・・・・構成はともかく言い回しというか文体がどうも気に入らなかった。よくよく見てみれば、先に読んだ物と作者は同一ながら訳者が違った。訳者が違うと話の読感にまで影響を及ぼすという典型であった。
巻末の注釈によると順次翻訳予定とあったが、一朝一夜でなせるものではない。また、その訳した内容が肌に合わないという可能性もあった。そしてシリーズ物であるからといって、初期から順番に発行されていくというものではなく、そこらは出版社の都合という事になる。それならば、と思い原本の方を手に入れようと思ったのだ。
適当にパラパラと頁を綴る内についつい内容に引きこまれ、はっと気がついた時には10時を回っていた。眠気が訪れたわけではないが、変な体勢のまま読みふけってしまったようで首の後ろがぴきりと吊った。軽く首を回して凝りを解すと、これ以上読み進めたら知らぬ間に夜が明けているなと判断し、多少の未練を抱きつつ本を片付けていく。
翌日の用意をして今日は早めに休もうか・・などと考えながら鞄の中身を取り出していると、はらりと一枚のプリントがこぼれた。
「・・・・・・・忘れてたぜ」
昼間の授業を思い出し、跡部の顔が顰められる。どうやら今日は教師の機嫌が悪かったらしく、いつもならば半分諦めているジローの居眠りに怒りを爆発させ、連帯責任だとクラス全員にレポート提出を言い放ち授業半ばで終わらせたのだ。大人気ねぇ奴、とクラスの大半は冷めた反応で、ジローを責めるという事もなかった。いや、ただ単に諦めているのかもしれないが。その場で仕上げてしまえば話は早かったのだが、残時間が自習となったのを良い事に、忍足が何のと話かけてきては邪魔をするので進める事ができなかった。放課後も、部の方に顔を出してそれどころではなかったわけで、危うく忘れてしまう所だったというわけだ。
「―――疲れましたが、宿題があります。さて、どうするか」
部の方でかなり体力を使ったので、体は疲労を訴えている。本音を言えば、目の前のベッドが大層魅力的に思えるぐらいには疲れていた。
「ちっ、面倒だな。・・・・ま、一時間もありゃカタつくか」
読み物に気を取られる前ならば何という事はなかったのだが、気になるそちらを中断してやらねばならない事となるとモチベーションが多いに下がるというもの。それでも優等生の名は伊達ではなく、跡部は気が乗らぬままながら、面白みの無い政経の教科書を軽く読み直し、後は指を止める事なく一挙にレポートを書き上げていった。