14.部室に行くと鳳が泣いていました。どうしたんでしょう?
「・・・・・・・・・・・・・」
扉を開けようとした手が止まる。もれ聞こえてきたのは、微かな泣き声。
躊躇いは、ほんの僅かな、あるか無しかの間。
「――――ふん」
跡部は一度止めた手を、そのまま引いて扉を開いた
最初、跡部は顔を出すつもりはなかった。最近は意識的に部の方から距離を置いている。だが、昼に鳳と会った際についつい「顔を出す」と言ってしまった事であるし、それに加えて日頃滅多に頼ってこない日吉の陳情ともなれば重い腰でも動かさずにはいられない。ましてやその背後でじっと見つめる樺地の姿があれば尚更だ。
樺地は日吉以上に跡部に何事も要求しない。跡部の願いであれば、それが例え理不尽な命令であろうとも文句の一つなく黙々とこなす癖に、自分の希望といったら全く口にはしない。それでも付き合いの長さと洞察力から、推察する事は跡部にとってそう難しい事ではなかった。
「部室に行くと鳳が泣いていました。どうしたんでしょう?」
こう問われて「知るかよ」と答えてしまえば話にならない。仲間のフォローぐらい自分でやれ、とも言い切れない。何しろこの二人、そういう面ではとんと経験値が低いからだ。日頃彼らの言葉や示す態度の足りない点をフォローするのが鳳であるので、こういう場合誰を頼るかと言えば先輩である自分達しか思い浮かばなかったのだろう。もしここで跡部がすげない態度を取れば、宍戸、忍足、向日、滝――と相談窓口はスライドしていく筈であった。最も跡部が動かぬとは全く考えていない二人であろうが。
足を踏み入れた室内には、思わず重い溜息を吐いてしまいたくなる光景。
例えばこれが、涙を抱えた少女であれば抱き寄せて慰めるも良し。
気の強い女生徒がきっと涙を拭う事もせず睨みつけてくるのならば、軽口を叩いて場をかわすも良し。
――最も男子テニス部の部室にて女生徒が泣いていくなぞあって良いシュチエーションではないが。部員の誰かが彼女を連れ込んだか・・それは同意であろうと強引にであろうとすぐさま処罰の対象だ。引退した立場だからといってタガが緩んでいるのを見過ごす跡部ではない。
が。
今はもう涙を流してはいないが、部室の隅にてどんよりと沈み込んでいるのは、爽やかスポーツ少年の名も高い鳳長太郎。テニス部の後輩。つまりは男である。性差別などする気はないが、こういう場合の対応は異なって当然の事であった。かといって、跡部にとってどちらに比重がかかるかと言えば・・・・まぁそれは比べるまでもない事なのだが。
「そこに居る泣き虫小僧は何者だよ?」
「・・・・あ、・・・・跡部・・・・さん」
扉にもたれかかるようにして、声をかけると振向いた顔が一瞬強張った。この間は無視すべきものではない。ポーカーフェィスが得意な奴だというわけではないが、かといって鳳は今まで跡部に含みを持った事はなかった。恐らく最も敬愛しているであろう宍戸のレギュラー落ちに関わる件でもその事は変わりなく・・その信頼の瞳に揺るぎが生ずる事はなかった。
ぎこちない笑み。取り繕ったような態度。これから導き出されるに・・・・どうやら鳳の異常は跡部に絡む事らしい。全く何も欠片も微塵も覚えが無い・・・・とは言い難い。果たしてどの点に絡む事だろうか?と選択肢を取り出すくらいには存在してしまうのが実情だ。
しかしそれを表面に出す事なく、跡部は後輩を叱り飛ばすようにきつい視線を向けた。跡部の叱責をまともに受けて鳳はびくりと身を竦める。
「部員を率いるのが部長の役目だよな?」
「はい」
「それがわかっていながら、こんな所で何してやがる?」
「すぐに行きますっ!」
飛び上がるようにして駆け出す鳳が脇を通りぬけようとした際、跡部はその腕をぐいと掴んだ。
「跡部、さん?あの?」
「・・・・・・んな面であいつらの前に出るな。今は日吉と樺地が見ている。しゃんとしてから行け」
「すっすみませんっ!」
「・・・・・・・・・・」
恐縮する鳳の態度は萎縮したままで・・・・その顔はやはり泣きだしそうだった。
「何か言いたい事。聞きたい事があるか?」
「・・・・・・・・・・・・・っ」
掴んだ腕から感じとるまでもなく、びくりと面白いような反応が返る。ったくしょうがねぇ奴だな・・・・と呆れ一方で、宍戸がついつい鳳の事を面倒みてしまう心情がわからなくもなかった。ある意味苛め甲斐のある奴だが、ある意味本当に放っておけない。
「――――ですか?」
「あ?」
「・・・・・・上に行かないって本当ですか?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
そっちかよ、と悪態を付きたいような、そんなに今にも死にそうな顔して聞く事かよ、と笑い飛ばしたいような、それでいてくすぐったいような、微妙な気分。こうして慕われているという事実を面と向かって見るのは、気恥ずかしくもあるが、知らず笑みを浮かべてしまいそうにもなる。
「―――そんな表情で笑わないで下さい」
「笑ってっか?」
「・・・・・・愚図る子供を扱いあぐねているみたいです」
「実際その通りだ」
「否定、しないんですね」
「ほぼ確定の事実だからな」
「――――――っ」
ばっと鳳が顔を背ける。表情を見せたくないのだろう。が、跡部の目にはそのショックを受けた顔が一瞬だけでもしっかりと目に映った。
今更何を驚くのか。すでに見知った事実の確認をしただけだろうに。それでもまだ僅かに希望を抱いていたという事だろうか。跡部が否定をするという希望を。
その話を知る者は少ない。現時点では身内か、あとは担任と、テニス部顧問である榊ぐらいだ。仲間達にはまだ話していない。彼らは跡部も共に高等部に上がると思っている。進路希望は基本的に他者には漏らされない。当人が話さない限りは知る由もないのだ。
鳳の反応は少なからずの動揺を跡部にももたらす。同じように、いやそれ以上にあいつらは衝撃を受けるのだろうか。それとも、軽く目を見張る程度で納得するのだろうか。それはその時になってみなければわからない事だ。本当は早く話すべきなのかもしれない。ぎりぎりになって知らされたら、彼らはやはり怒るだろうか。
「一年頑張って・・・・また先輩達と一緒に全国を目指して・・・・それを励みに・・・・」
「ばーか。勝手に人の進路決めてんじゃねーよ」
「・・・・・ほ、本当ですね・・・俺ってば・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
俯く鳳の気持ちは、本音の面から言えば嬉しい。こんな風に慕われて、嫌な気持ちなどするわけがない。けれども・・・・それでも―――
「―――お前達ともう一度全国を目指したい。その気持ちは確かにある。だが・・・・それよりも大きい・・熱過ぎる熱を・・・・抑える事がもうできねぇんだ」
「・・・・・・・・・・・・」
「それとな。時間の問題も、あっから」
「!」
「限られた時間の中で、どれだけできるか・・・・だな」
「跡部さんなら、大丈夫です!」
「鳳?」
「跡部さんなら・・・・俺達の跡部部長ならば・・・・絶対に大丈夫ですっ!」
「・・・・・・・・・・・・・・ありがとよ」
言われた当人が苦笑を浮かべる程の断言を、この後輩はしてみせた。それはけっして嘘偽りからの言葉などではなくて―――正直者の鳳らしい真っ直ぐな視線できっぱりと言い切った言葉で―――何というか樺地を相手にしているかのような気分となり、跡部は指をちょいちょいと揺らし鳳に少しばかり屈むように指示した。
不思議そうな表情で膝を曲げた鳳の頭が丁度跡部の肩の辺りに来る。くしゃくしゃと崩すように頭を撫でると、鳳の顔が見る間にトマトのように真っ赤になった。今まで跡部がこのように接触するのは樺地を於いては他になく、それ故免疫がなかったせいだろう。
「―――鳳」
「はい」
「さっきの件は、しばらく伏せておいてくれ。折を見て、俺の口から話す」
「―――はい」
「それと、な」
「はい」
「部長はてめぇだろ?」
「――――あ・・・・・・その・・・・つい」
「しっかりしろよ。『鳳』部長」
「―――はい。すみませんでした。だけど・・・・俺にとっては、いや俺を含めたテニス部の部員達にとっては、やっぱりずっと跡部さんが部長なんですよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ばーか」
鳳の言葉に一瞬詰まった跡部であったが、やはり口をついて出たのはそんな言葉だった。