01 約束の代わりに
肩の治療の為に九州へと赴く事は、部員達には伝えたものの、他に伝えるべき事でもないと思っていた。
生徒会の方は副会長に任せてあるし、部の方は大石に託してあるので問題ない。家族の面では母が同行しようかとも言ってくれたが、父や祖父だけにする方が不安だった。少し長めの合宿のようなもの、と伝えると母はもう一度だけ「大丈夫?」と念を押し、その後は息子の判断に任せてくれた。長く培ってきた信用があるというのはこういう時に強い。
しかしながら、どこをどう回っていくのか、過去に対戦した相手、これから対戦する筈だった相手からの連絡がひっきりなしに来た。
「早く戻ってこい」「たるんどる」「今度は勝つ」「次は俺が潰す」言葉は違えども、こちらを気遣ってくれるのは間違いないようだった。
激励なのだか挑戦なのだかの言葉に手塚が返せるのは、「そのつもりだ」「そんなつもりはない」「俺は負けない」「次はない」と素っ気無いもので、もし相手が目の前に居れば彼らは鼻白んだ事だろうか。
だが手塚は彼らに友情めいたものを抱いた事はない。ライバルといっても個々のレベルでの認識ではないのだ。あくまで青春学園の一選手として、相手校の手強いメンバーとしての認識のみだ。手塚にとって特別といえる選手といえば、かつてプロで活躍した越前南次郎ぐらいのものだった。
煩わしいと思うわけではないが、有難いとも思えないし、嬉しいとも思うわけではない。ただ、何故これほどまでに自分を気にするのか不可思議な事ではある。
そして気になる事がひとつ。一番かけてきそうな相手からの連絡がない―――という事だ。
別段おかしいわけではない。馴れ合うような仲ではない。だが、誰でなくとも、皆が手塚を落伍者と見限っていたとしても、あいつだけは――――跡部からだけは、あるような気がしたのだ。それは、ただの思い込みであったようだけれども。
結局のところ、跡部の中では決着はついてしまったのかもしれない。それを少し残念に思う理由は自分でもよくわからない。
荷物の殆どはすでに送ってあるので担ぐ荷物は軽い。それでも負傷した方とは反対側の肩にひっかけ、手塚は改札へと歩きだした。ホームまで見送るという仲間達の言葉は丁重に辞退した。長の別れではないのだからと、前日のうちに挨拶は済ませてある。薄情者となじられもしたが。溜息混じりに歩き出した先、壁に持たれるようにして立つ影に手塚の足が止まる。
壁に寄りかかるようにしている人物から投げ出されるようにして伸ばされた足。平均的な日本人よりも長く伸びやかなその足に通りすがりの中年男性が羨望と嫉妬の視線を向けるのが視界の端に映る。
通行の邪魔だと、普段ならば眉を潜めるその行為が彼には似合いと思ってしまうから不思議なものだ。これが諦めというものなのかもしれない。
無造作に投げ出された足。ただそれだけで持ち主が誰であるか判別できる。
跡部景吾。
息を吸うように自然と、彼だと確信できた。
「――――よぉ、偶然じゃねぇ?」
「・・・・この状況でそう発言できるお前の神経を疑うな」
「言ってくれるじゃねぇのよ。御大層な自信だな、あぁ?」
「・・・・・・」
見送りに来たわけではないのか。この後に及んで喧嘩を売ってくるような跡部の思考形態は実際理解に苦しむ。
いや、最初からそのつもりで現れた可能性もないわけではないが。跡部が挑発的であるのは彼の常態であると言える。いつか刺されてもおかしくないな、と思う事もあるが、おそらくそれを口にすれば「てめぇにだけは言われたくねぇよ」と返されるのがオチというところだろうか。
全く、いつの間にやら彼の反応をある程度把握できるようになっている自分が不可思議極まりない。他人に興味を持つ事など、殆どないと言い切れるこの自分がだ。
跡部の事を意識しだしたのは、先日の関東大会がきかっけというわけではない。もっとずっと以前から、手塚の意識は跡部へと向けられている。
執着とまでいく強い感情ではないが、周囲に無関心とされる手塚にしては珍しい事である。だが周囲にも、また当人にもそれと悟らせる事はなかったが。むしろ、全く興味の欠片も抱いていないと思われていただろう。手塚の素っ気無さといえば筋金入りだった。
「さぼったのか」
「おいおい。品行方正、氷帝の鏡たる優等生の俺が、んな真似するわけないだろ?」
それもたかだかてめぇの為に、と言わんばかりの視線にむっとする。あれだけ自分にこだわってきたというのに、どの口が言うのかというところだ。最も、素直で取扱い易い跡部など、想像するだけで寒気のする存在だが。
「休みなのか」
「ああ。自主的にな」
「・・・・・・・・・・跡部」
お前は日本語の使い方を間違っていないか?と眼鏡の奥から視線で訴えるが、対する跡部は口元を緩く上げて笑みのような形をとって肩を竦めたのみだった。この表情は見慣れたものだが、いつも前にすれば小馬鹿にされたように感じる。いや実際馬鹿にされているのだろう。腹立たしい事この上ないが。
「今日の俺様は体調不良により自主欠席だ」
「随分健康的な病人だな」
「は。俺様の繊細な病状をてめぇ如きの朴念仁が見極められっかよ」
「そうか。精進しよう」
「・・・・・・別にしなくていいけどよ」
体調が悪いとは到底思えないが、真実そうであったとしても手塚には跡部の不調を感じ取れない気がする。それを意識した為、努力を宣言したのだが・・・・生憎とあっさり却下された。そういう面での期待は全くされていないらしい。
跡部との関係は一体何なのだろうか。
少なくとも友人関係ではない。それほどの親しさを互いの間になど感じていない。
だが、誰より互いを理解しているとも言える。現在の所、二人の間を隔てる壁は厚く、高い。これを乗り越えて友人関係を築くのは現時点では無理だろう。しかし、今より先の未来はわからないというもの。手塚の希望としては、今一歩は歩み寄ってみたい存在だとは思う。
「見送り断ったのかよ」
「あまり大仰な事は好まない」
「は。てめぇらしいっちゃらしいよな」
「・・・・・・・・・・・・・」
手塚の答えに喉奥でくくと笑う跡部は楽し気だった。
一体何がらしいというのか。他の誰に言われても不愉快さを感じたであろうが、跡部に言われると納得してしまうから不思議だ。それほど多くの会話を交わしたわけではないけれど、言葉にする前に先読みしてくる跡部の能力は実際便利なものだと思う。もしかすると横着さに拍車をかけてしまう事になるかもしれないが。
だが、口に出しておくべき言葉はある。本来は、治療を終えてから跡部に連絡するつもりだった。向こうから手紙を出そうかとも考えたが、何を書いたら良いか思い浮かばないような気もしていた。
伝えたい言葉は一言だけで、それならばやはり直接口にするべきだろう。電話やメールという手段もあるが、生憎と連絡先を知らない。乾にでも聞けば恐らく入手できるのだろうが、それに伴うかもしれない騒動を考えると二の足を踏む事だった。
「跡部」
「んだよ」
「―――すまなかった」
「ふ、ん?かの手塚国光が俺様に詫び、ねぇ。一体何の含みがあるのやら」
「それだけは伝えておきたかった」
「それだけね。随分重い言葉だよな。ここにお前のお仲間が居たら、目ぇ剥いただろうぜ」
「居なくて幸いだ」
確かにありえる事であったので正直に答えると、跡部はまじまじと手塚の顔を見つめた後で破顔した。「てめぇ・・とことん薄情ものだな・・・・」などと失礼な言葉をまじえつつ。
思えば、跡部の表情といって思いつくのは常に笑みのような気がする。
その都度都度のより、笑みの種類は異なるのだが、不思議と他の表情が思い浮かばない。一番よく目にするのは、皮肉気に挑発めいた笑みであるが、堪え切れずに笑い転げる跡部なるものに、この日はお目にかかる事となった。
「―――くっ、あははははははっ!」
「・・・・・・・・・・・・・」
いつにない屈託ない表情で腹を抱えて笑う跡部。対する手塚はいつにも増しての渋面だ。眉間の皺にはそれこそ割り箸が挟めるのではないかと思える程である。
「た、たまんねぇっ・・・・・・」
「・・・・・・・・そこまで笑う事はないだろう・・・・」
目元に涙すら滲ませて笑い続ける跡部に手塚が恨みがましい視線を向ける。誰しも笑いものになる事を好む者はいない。これが芸人ならばここまで笑って貰って本望というところかもしれないが、生憎と手塚の中にお笑い芸人血は一滴たりとも流れてはいない。
「悪ぃ悪ぃ。気にしてんだな・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
一応気遣いをみせた跡部は笑いを収めようとしたようだが、手塚の顔を見た瞬間堪えきれずに再びぷっと吹き出した。本来の跡部は表情豊かで喜怒哀楽がオープンであると見られがちだが、実際のところはそれらは計算されたポーズであって、実際の感情と本音を切り分けて使っている。
よってここまで素を曝け出す跡部というのは実に珍しい事であるのだが・・・・生憎とそれを楽しむ余裕など手塚にはない。何しろ笑われているのは手塚本人であるからだ。
立ち話をしているうちに、何の気無しに腕時計に視線を走らせた手塚はいまだ時間に余裕がある事に気づいた。早めに新幹線に乗り込んでゆっくり寛ぐつもりであったが、折角(呼んだわけではないが)跡部が目の前に居る事であるし、と店に入る事を誘ったのだ。車内で食事を済ませるからと、母に朝食の用意を断っていた為、小腹も空いていた。
駅の構内になど大した店はない。跡部の口には合わないだろうが・・と思いつつ誘いの言葉をかけたのだが、「付き合ってやらん事もねぇ」とまぁまぁの快諾を得た。サンドイッチやら和定食やらラーメンやらうどんやらと、大衆食堂のような品揃いの店に入り、そう重くないものを数点カウンターで注文する手塚に応対していた店員がにこやかに微笑みを浮かべながら聞いてきたのだ。
「お飲み物にビールはいかがですか?」
手塚は制服だった。特徴はない代わりに誰もがよく目にするタイプの学生服だ。それだというのにそんな事を聞かれたのだ。
びしりと顔を強張らせた手塚の半歩後ろの位置に跡部は立っていた。跡部の声はそう大きくなくとも不思議と耳に残る。その耳障りの良い声での笑い声が、そう広くはない店内に響き渡った。
「まぁ、傑作なわけだ」
「俺は面白くはない」
未だにくっくと喉の奥を鳴らす跡部に手塚の機嫌は下降一方。
「てめぇが横にいりゃ夜の酒場もスルーできそうだよな」
「言わせて貰うが跡部、お前とて到底中学生には見えぬ見てくれだと思うが」
「ばーか。俺様の場合は『大人びている』ですむが、てめーの場合は『老けてる』になんだよ。五十歩百歩、目糞鼻糞と言われるが、そこには明らかに差異があるよな?」
「・・・・・・・・」
そう言われ、素直に頷けるものでもない。確かに頷ける部位はあるが、納得できるかと言えばそれとこれとは別というものである。
「百歩は五十歩の倍あるし、他人の目糞は触れても鼻糞は触れねぇ。つまりはそういうこった」
ひどい例えものだが、ここで「お前の鼻糞ならば触れるぞ」とでも告げたら跡部はどう反応するだろうかとも手塚は思ったが、自分を追い込む発言なだけのような気がして口に出さずにおいた。
さすがの跡部もそれ以上は手塚をからかう事はないようだった。食事を続ける手塚の前で紅茶で喉を潤している。
「まずいな」と、口をつけた時点で文句を放ったが、残すつもりはないようだった。何の飾りもない安値であろう白いカップが跡部の手にあると高級品にも見えるから不思議なものだ。
二人が店に入った時点ではまだ幾つかの空席があったのだが今ではほぼ埋っている。硝子のウィンドウごしに跡部の姿を見て引かれるように客が入ってきた為だ。跡部には妙な集客率があるらしい。
どこにでもあるような店が、跡部の存在によって格があがる。これは跡部の持つ気品がそうさせているのだろう。口も態度も柄すら悪いが、それでも跡部の品が下がる事はない。得な体質といえるのだろうか。
「・・・・・・んだよ。じろじろみやがって」
「お前は、どうしてそこまで言葉が粗雑なんだ。勿体ない」
「勿体ない、勿体ないね。言ってくれるじゃねぇのよ。―――手塚君は部内の友人達の事が気掛かりでしょうが、彼らはそれほど弱くはない。安心して自分の身の治療に専念すると良いですよ。僕も経過が気になり同行したい程に心配で心を痛めておりますが、生憎と多忙を極めており、自由な時間がままならぬ身でして・・・・せめて出立前に顔を合わせておきたかったんですよ。無事全国大会までに戻ってくる事を切に願っています」
「――――何の冗談だ」
「労いおよび激励の言葉」
「・・・・・・・・食事を戻しそうだからやめてくれ」
「ひでぇ言い草だな。ひとつも信用しないってか?」
「一つぐらいは本音に沿った言葉があったのかもしれないが、言葉の全てを聴覚が取得拒否した為、生憎と跡部の言葉は記憶に残っていない。断っておくが繰返しは不用だ。本気でもどすぞ」
「・・・・てめぇこういう時ばかり舌がまわんな」
立て板に水が如く流れるように言い切った手塚に跡部も呆れる。余程ど嫌だったようだな、と見当をつけはしたが。
気持ちはわからなくもない。その反応を見越しての発言だったからだ。
氷帝の仲間達もよく「もっと優しくしろよ」「跡部オーボー!」「どこまで俺様やねん」「うーんさすがに結構きついかな」と文句を言ってくる事もあるが、そんな時、社交界モード(生徒会長モードはそれなりに目にしてきた為か効きが悪くなった)至極穏やかに、涼やかな笑みを浮かべつつ、口調も穏やかにトーンも甘く優しく、慈愛の視線をもって接してやると―――即座に青くなり脱兎のように目の前から逃げ出す。
その日一日は大人しいもので、私語ひとつ叩かず黙々と鍛練に励みさらにはけしてこちらと目を合わそうとはしないのだから効果としては絶大だろう。
最も効きも一日二日程度ではあるが。いっその事スペシャル版でもかましてやろうかと思う事もないでもないが、完全に大人しくなったあいつらなど旨味も何もあったものではないと思えるので思うだけにとどめている。
まあどちらにしても手塚相手ならばそこまでする必要はない。ほんの少し猫被りモードを示しただけでこの顕著な反応。頭の堅ぇ奴だなと思える一方、跡部はそんな手塚が嫌いなわけでもない。むしろ好ましいと思っているだろう。
「・・・・・そろそろ時間じゃねぇ?」
「ああ、そうだな」
跡部に促されて時計を見た手塚が椅子から立ち上がる。
空き皿の乗ったトレイに手をかけた手塚を押しとどめ、「てめーは先に外に出ていろ」と手塚を外へと促し片付けは跡部が行った。その際の、この世の終わりを見たとばかりの驚愕を表した手塚の顔は実際見物でだった。跡部がそのような事を口にするとも行動するとも想像の範囲外だったに違いない。
跡部とてファーストフードの店に入る事はあるし、泊まるホテルによっては朝食などはバイキング形式だ。(この場合片付ける必要はないが)学食だって使用するし、幼馴染みの家に泊まる場合など片付けも手伝う。
まあ、余所から期待されている役どころでないのもよくわかっているので、ごく親しい者の前でしかそういう面は見せないが。
店を出ると手塚は律義に待っていた。その肩にはさほど大きくはないスポーツバッグがかけられている。それが跡部が気紛れに親切心を起こした理由だ。
肩の傷を労ってではない。ほぼ手ぶらの跡部と手荷物のある手塚。どちらが片付けるべきであるかは考えるまでもないだろう。俺様は常識人だからな、と聞く者がいれば盛大に否定の挙手をあげそうな事を跡部は内心思っていた。
ここまできたからには――と跡部は入場券を買い、乗り込む寸前まで見送る事とした。黙々と歩く二人に会話はない。もともと、どちらも沈黙を苦とはしないのであるが。
「今日はありがとう。見送り感謝する」
「別に見送りに来たわけじゃねぇよ」
あくまで跡部はそのポーズを貫いた。手塚の方も車外放送が入るぎりぎりまでホームに残っていた。
見送りなどいらないと仲間には伝えた癖に、人寂しいのだろう。
「何なら万歳三唱で見送ってやろうか?」
「一人では様にならないだろう。だからといって通行人を巻き込むのも遠慮する」
「そこまでやらねぇよ。―――っと」
出発の時間となった。手塚は小さく頷くと跡部に背を向け車内へと乗り込む。
「・・・・・・・・・・・・」
背後から跡部は手塚の腕を引いた。
不意打ちによろめいた手塚の身をもう一歩引き寄せ、抵抗を示す前にそっと頬に唇を押しつけた。
ほんの、一瞬。
すぐに跡部は手塚の背を押し車内へと押し込んだ。はずみで中へと転がりこんだ手塚と跡部の間でタイミングよく扉が閉まる。
愕然とした表情で扉にかけよる手塚。だが跡部との間にある扉は閉ざされたままだ。
今生の別れみてぇだな、などと面と向かって言えば「縁起でもない」と盛大な顰め面で返されるであろう事を考えればながら、跡部はゆっくりと手塚に読み取れるように唇を動かした。
「勝・っ・て・こ・い」
その言葉を手塚が理解するであろう前に跡部はホームから二歩ほどさがった。ほぼ同時のタイミングで車両が動き出す。
跡部は二指を揃え、進行方向へ向かう軽く振り下ろした。氷帝ではお馴染みの榊直伝「行ってよし」だ。
風圧が跡部の柔らかな髪を揺らす。
人の目が全くないというわけでもない場の中で、跡部に奇異の視線を向ける者は居ない。先程の件はほんの一瞬であったし、跡部の体が影となり誰の目にも映らなかったのだろう。
別段、誰に見られたとて困るわけではない。恋愛めいた、艶めいた感情からなる行為ではなかったからだ。
「・・・・・・・勝利の女神ならぬ勝者の帝王様からの接吻だぜ?効かねぇ筈がねぇよな?」
ポケットに手を突っ込んだまま、語りかけるような跡部の言葉は、小さくなっていく車両に吸い込まれていくかのようだった。
必ず勝って戻って来い。
言葉にはしなかった意思は確かに手塚に伝わっただろう。
それは、約束ですらない―――――跡部からの―――
餞別のようなものだろうか。