■ 静かなる挑戦 (DATE:2005/10/26)
手塚国光は憂えていた。
近頃少しばかり困った状況に陥っているからである。
命に関わりがある程の問題というわけではない。けれども人間の三大欲に関わる以上、それなりには重要ポイントとも言える。
「食欲・性欲・睡眠欲」
これらは満たされて然るべきである。人が人として生きていく為には。
いや、それ程のご大層に言い切るような事ではないと言われるかもしれない。一応睡眠に関しては必要とされるだけは取っているので問題ない。性欲に関してもかなり淡白であると自覚しているので、差し当たり押し迫った問題ではない。最後の食欲。全てはこれにかかっているのだ。
空腹感を感じない、というわけではない。ごく普通に健康体であるので、ただ生きているだけで空腹は巡りめぐってくるものだ。そしてテニスというスポーツに慣れ親しんでおり、日々鍛錬に明け暮れている為、体は食物をきちんと求め訴える。そう、腹は減るのだ。ついでながら食べる物に事欠くような生活でもない。
では何が問題なのかといえば。食にまつわるひとつのポイント――味覚である。
手塚はこれまで自分が美食家などと考えた事はなかった。味オンチではないので、普通に美味しいものは美味しいと感じてきたと思う。母の料理も格上の腕前というわけではないが、慣れ親しんできたという理由ばかりでなく今までは美味いと感じてきた。が、ここで引っかかってくるのが「今までは」という所だ。つまりは今はそう感じていないという事である。
理由は何より明らかだ。しかも先方はこちらにこんな後遺症を残すなど思ってもいなかったに違いない。あくまで好意により施されたのだから。
先の連休の際、手塚は跡部の誘いに応じて彼の家の所持する別荘へと遊びに行った。フライフィッシングの良い渓流ポイントがあるという誘い文句は、一も二もなく頷かせる程に魅力的なお誘いであった。手塚はルアーフィッシングの方を主とするが、釣りそのものを好んでいる。一般的にフライキャスティングは初心者には難しいと言われているが、上流者である跡部がコツを教えてくれるという事で、その点でも心強かった。
釣りを楽しみ、また都会を離れた静かな地での休暇は楽しかった。そして何より跡部家お抱え料理人の供す料理は、世にこれほど美味なる食事があったのか――と手塚をして瞠目させる程の腕前であったのだ。
その結果がこれである。美食に慣れてしまった手塚の舌は、普通の食事では納得しない。「はっ!この程度の飯で満足できっかよ!@跡部」的な高慢ぶりなのだ。実に困った事である。
美食三昧の日々の後に日常へと戻ってきてから、手塚は食事を「美味い」と感じた事がない。腹は減るので空腹は満たすが、食事を楽しむというわけにはいかず何とも空虚な思いを抱いてしまうのだ。
これでは良くない。こんな状態が良いわけがない。そう判断した手塚は荒療治に出る事とした。
そしてその個人的処方の結果が目の前にある。
時は昼。所は青春学園内食堂。目の前には手塚がこれから食す予定の昼飯。丼いっぱいのキムチ丼。―――ただしご飯抜き。これは手塚の求めに応じたおばちゃんの職人意識の賜物である。
「キムチ丼。ご飯抜きで」
この取りようによっては相手を馬鹿にしているとしか思えない注文を、おばちゃんはしばし逡巡の後に受け入れた。タッパーにこんもりと詰めらられた真っ赤なキムチをご飯を載せないどんぶりにどんどんばんばん載せていったのだ。そしてその整った風貌と礼儀正しさから食堂のおばちゃん達の密やか(あまり密やかでもないが)なアイドルでもある手塚は、「おまけだよ」の一言で、通常よりも大盛り仕立ての食事を供される事が多い。この時も然りであった。
つまりは。キムチ丼スペシャルご飯抜き大盛りバージョン・・・・である。丼からこぼれんばかりのチョモランマ級なキムチの山。自分が頼んだ品物とはいえ、手塚を絶句させるには充分な一品であった。
「――凄いね」
「・・・・・・・・・・」
「手塚って辛党だったっけ?」
「・・・別にそういうわけではない」
その日の食堂内はそれほど混んではおらず、空いた席もちらほらある状態だったのだが、不二は手塚の姿を見つけると正面の空いた席へと腰を下ろした。まぁ顔見知り(チームメイトであったが)同士で食事を共にするのは別段珍しい事ではない。
などと思いつつ、一口。
キムチだった。
もぐもぐと咀嚼し更に一口。
やはりキムチだった。
―――当然の事なのだが。
「何もそんなに苦痛に耐えるようにしてまでキムチを食べる事はないんじゃない?」
「・・・・・これは必要なことなんだ」
「必要?」
「ああ。リハビリの為に」
「・・・・・・・ふーん」
手塚の言葉に納得したのか不二はそれ以上は追及してこなかった。いや、ただ単に手塚の本気のオーラにこれ以上構うのは止めた方がよさそうだと判断したのかもしれない。不二という男は誰より機を見るのに聡い奴であるのだ。
キムチを食べる。噛んで飲み込む。キムチをつまむ。噛み締める。
その繰返し。
食堂配膳係りのおばちゃんの好意(厚意?)によって生み出だされた大盛りキムチ丼は、汲めども尽きぬ泉の如く、手塚の前から消えてくれそうになかった。
山の一部を崩しただけの状態ですでに味覚は磨耗(馬鹿になっているとも言う)している。何故これほどの苦行を自分に課さなければならないのか激しい疑問を抱くが、それでも目の前にある試練の源から逃げ出す事を手塚の気概が許さなかった。
すでに義務感すら忘れ惰性に流されるままに黙々とキムチを食していく手塚である。二度とこんな事を試そうとはしないだろう、と思いつつ、だがこれだけ痛めつければ己の甘えた味覚も性根を入れ替えて素直になるだろうと・・・・それだけがたったひとつの救いであった。
手塚の孤独なる戦いは、青春学園の食堂の片隅にて静かに続けられた。
Wパロ.「戯言シリーズ」