| |
光る |
玄関先で、跡部の靴を履く背を見送る形で眺めていると、母の足音がパタパタと聞こえてきた。
「―――もう、帰ってしまうのね。残念だわ」
「お邪魔しました。そう言って頂けるのは嬉しいですが、二人きりの時に言って頂けるともっと嬉しいですね」
「あら、跡部君たら――」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
満更でもない笑みを浮かべて微笑む母は華やいで、恋に浮かれる少女のような印象だ。元々、母は跡部の事を気に入っているし、跡部の容姿といえばそれこそ女性が想定する王子様を具現したようなものとも言えるのかもしれないが――――
敢えて一言物申すならば。
人の母親を(しかも玄関先で)口説くな。
人の友人と(一応そうと言える関係だろう)誤った関係にだけは陥らないで下さい。
一言ではなくなってしまったようだが、そんな所だ。
「国光。そんな不機嫌そうな顔をしないの」
「どうした?腹でも痛ぇのか?」
「・・・・・・・別に不機嫌でもなければ、腹痛でもありません」
青春学園の者ならば、びくりと震えて硬直しそうな手塚の表情も、この二人においては何の事はない。和やかな空気そのままに、脅えもしなければ咎めるでもない。恐らくは、生涯敵わぬであろう二人相手であるのだから、それも仕方ない事なのかもしれないが。
「あら。やかんに火をかけていたんだわ。ごめんなさいね、跡部君。慌しくて。また来てくれると嬉しいわ」
「喜んで」
慌てて台所の方へと駆けていく母に、跡部は人好きのする笑みを浮かべて答えた。これは社交辞令ではなく本心からの笑みだ。以前に直接、「俺、彩菜さんの事、好きなんだよな」と言われた事があるから間違いはない。その時の跡部は、年上の女性への憧憬とかいったものではなく、何処かこちらが切なくなるような表情を浮かべていたので、手塚としては「――そうか」と答えるしかなかった。
母親に好意を抱かれた事には、少しばかり複雑な思いではあったが。家族を好んで貰って嬉しいと思う反面、自分に向けてそういった言葉を貰った事がないのが、微妙な感情の揺れの要因だ。
「門まで送ろう」
「ア?」
靴を履き終えた跡部が外へと出る前に、扉の前に立ち、外へと押し出した。怪訝そうな表情を浮かべているであろう跡部の顔は、背後にある為に見えない。
閉まる扉を見送るよりも、小さくなっていく背を見送る方が良いと思えたから、そんな風に行動したまでで。けれどもそれを口に出す事はできぬ言葉であるから、無言のままに背を向けたまま進み、門を開く。
「―――迎えはまだ来ていないようだな」
育ちの違いといえばそれまでなのだが、跡部には呼び出して送り迎えをしてくれる運転手が居る。自分達の年齢から、そんな風な扱いを受けるのはどうだろうかと一度意見をした事があったが、「防犯上の意味もある」と言われれば、考えなしの自分を猛省するしかない。
跡部の育ちを考えれば、常にボディガードが傍らに居ても確かにおかしくないのだ。安全神話の日本というのは、昨今では通用しない。凶悪事件も横行しているし、たかだか僅かな紙幣を目的に殺人を犯すような輩も存在する。祖父から伝え聞く所の日本国内の治安の悪化は、冗談ごとではすまないレベルになっているのだ。
「ああ。今日は呼んでねぇ。田舎で親族の祝い事があるんだと。長く仕えて貰ってるからな、長期休みを取らせた」
何でも無い事のように言う跡部はとても柔らかな笑みを浮かべていた。跡部は――本人はけして認めようとしないけれど――身内に(それは家族という意味合いばかりでなく)甘い。手塚も何度か会った事のある、跡部家御用達の運転手は、それが職務だからというばかりでなく、手塚にもとてもよくしてくれた。恐縮する手塚に、「坊っちゃまの御友人ですから」と、穏やかな表情を浮かべたその人からは、まだ年若いとはいえ、跡部に対する忠誠心のようなものと、隠しようもない愛情が感じ取れた。跡部が将来家の事業にも関わっていった際、それはいっそ熱狂的なまでに、跡部のカリスマ性に酔う人達で埋め尽くされるのだろうな、と思える日常の一端だった。
「それでは、タクシーを呼ぶのか?」
「いや。駅まで歩くぜ?そんな距離じゃねぇだろ」
「確かに距離はそうはないが、跡部、そんな格好で――」
「格好って何だよ。普通だろうが」
手塚の言葉に顔を顰め、己の風体を見下ろした跡部は「何がおかしいってんだ?」とばかりに苛立たしそうな目を手塚に向けてきた。
別段、跡部が奇天烈な格好をしているというわけではない。むしろ、安物など縁遠い跡部であるので、品の良い、質も確かに良いであろう服を身に纏っている。問題は、そう問題はそういう事ではなくて、別にあった。
穏やかな寒色の色合いのシャツは、跡部の際立った容姿を引き立てよく似会っていた。黒地の、飾りポケットが幾つもついた細身のスラックスは跡部の日本人離れした長い脚をより引き立てた。だが、それらは明るい日の下で見れば、見惚れるという事で、電灯も乏しい夜半の道においては、闇に溶けさせてしまう。
「駅に着くまで危ないからコレを羽織るといい」
「は?」
「ここから駅までの道は、照明が充分とは言えない。突然飛び出てきた車に遭遇すれば大変な事になる。油断しない方が良い」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
手塚の差し出したものをじっと見据えた跡部は、それがひとつの癖なのか、利き手を顔の前に翳し、指の隙間からこちらをすかし見るような――いわゆる、『インサイト』とか言うアレだ――ポーズを取った。
「・・・・・・・あのな、手塚」
「何だ?」
「それは、お前流のジョークなのか?だとしたら、一応努力は認めるが、笑えねぇな」
「俺は冗談など言ったつもりはないが?」
「それはつまり本気で言っていると?」
「当然だ」
「・・・・・・・・・・・・」
きっぱりと言い切ると、何故だか跡部は沈黙した。
「・・・・・・・・・・・・・・手塚」
「何だ?跡部」
「つまりてめーは本気だって事だよな?」
「先程からそうだと言っているだろう」
「なるほどね。本気なわけね。―――天然にも程があるってもんだろうがよ」
「・・・・・・・・?」
先程の跡部ではないが、今度は手塚の方が跡部の発言の意味を図りかねる状態となっていた。一人納得した風に、それでいて笑うべきなのか怒るべきなのか決めかねたような、形容し難い表情でどうやら煩悶していたらしい跡部は、一度深く息を吐いて己を落ち着けると、静かな瞳を手塚に向けた。
「手塚よ。一応、聞いてやるが、それは何だ?」
「安全ベストだ」
「まぁ、そうだろうな。それ以外には見えねぇよな。――それで、それをこの俺様にどうしろと?」
「無論、着るに決まっているだろう」
「はっはぁ。そりゃ、当然だよな。ベストは着用するもんだよな。で、そいつが何で手塚家にあるわけよ」
「お爺様が、地域の交通指導に参加する際に使われるんだ」
「なら、勝手に使うわけにいかねーだろーが」
「いや。問題ない。しばらくの間、当番は廻ってこないという話だし、お爺様も跡部の安全には変えられないと言われるだろう」
「安全ね。安全って、何が安全だよっ?!」
ここまで穏やかに話しを進めていた跡部だったが、何故だか急に声を荒げた。少しばかり情緒不安定なのかもしれないな、と思う手塚である。
「何も無いだろう。この安全ベストを付ければ、暗い道であっても幾分安全度が増す筈だ。車のヘッドライトを受ければ光るからな」
「そりゃ光るだろうな。蛍光なんだからよ。・・・・・・・・で、何だ?俺様は、安全歩行の為に蛍光靴を履かされる小学生か?――ってめっ、ふざけた事を抜かしてんじゃねえっ!!」
「ふざけてなどいない。跡部の身が心配なだけだ」
「―――本気で本気なわけね。余計タチ悪ぃだろーがっ!!!」
「・・・・・・・・・・・何故怒るんだ」
阿呆かてめーはっ?!とばかりに怒鳴りつけてきた跡部を前に、手塚はただ困惑の表情を浮かべるばかりであった。
|
|