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秘密の味 |
トントンと先に階段を昇る跡部を見上げ、その後に続こうとした手塚に母の声がかかる。
「―――国光」
「何でしょう?」
「これ、跡部君に渡して頂戴」
「これは頂き物ではないですか」
手塚の手に乗せられたのは、色鮮やかなオレンジが二つ。丸々と、艶々と、瑞々しい。
「でもね、とても美味しいのよ。跡部君にも是非味わって欲しいわ」
「・・・・・・切って出せば良いのでは?」
「国光のお客様にそんな風には出せないわ。ちょうど、ゼリーを作ってあるの。後で飲み物と一緒に持っていくわね。紅茶で良い?」
「はい。お手数をかけます」
「いやね。何言ってるのかしら」
「・・・・・・・・・・・」
くすくす笑う母に気を飲まれ、手塚は手の中のオレンジを返しそびれた。じっと手の中の代物を眺め、これを丸ごと手渡す方がどうなのだろうかと思わなくもないが、母が気にしていないのならば問題はないのだろう。
部屋に入ると、跡部はベッドに腰掛寛いでいた。床に座り込む跡部という姿は想像できぬのでそんな所だろう。「椅子にかけていても構わないぞ」と薦めるが、「こっちで構わねぇよ」と返されるのでそのままにしておく。
「それは?」
「――あぁ。母が跡部にと・・・・」
「へぇ。美味そうじゃねぇのよ」
きらきらと輝く蒼の瞳が楽しげに光ったので、どうやら興味を持ったようだと思い、一つを机の上に置き、一つを跡部の方へと放った。食物を投げるなど、しかもあの手塚が?とこの光景を見る者が居たら目を疑った事だろう。綺麗に放物線を描いたオレンジは、パシリと軽い音を立てて跡部の手の中へ収まった。
「祖父の知り合いの農園で栽培したそうだ。無農薬だという話だが・・・・」
「へぇ、国一爺さんの、ね」
くすりと跡部の口元に柔らかな笑みが浮かんだ。手塚の祖父である国一と跡部とは仲が良い。気難しい性格である祖父と我の強そうな跡部と・・と、普通に考えれば合うようには思えぬのだが、跡部本人を良く知り得ていく内に、見かけからは到底計り切れぬ深い人物とである事を知る。相手を認めた場合に限るが、正に良家の御曹司の鏡であると言い切れる程に跡部には礼儀正しく慎み深い面がある。そして、相手の感情を見極めるのにも長け、そして気づくとするりと懐に入り込んでいるのだ。さすが、氷帝学園の帝王だ、と感心する。
実の所は跡部が初めて手塚家を訪問したのは、国一に連れられてであった。だから跡部はよく、「別にてめぇに会いに来たわけじゃねぇ」などと言ってくれる。そのまま手塚そっちのけで国一と話し込んでいたり、将棋をしたり、囲碁をしていたりする事がある。どうやら跡部は年配者を好むようで、懐いているという表現は正しくないけれど、手塚の目から見ても祖父と跡部との間柄は年の離れた友人という関係なのだ。そんな二人を羨まし気に見ている事が時折―――あるらしい。母である彩菜の指摘によれば。
跡部は手に持ったオレンジをしげしげと眺め、袖口でぐいと拭うと躊躇なく齧りついた。一瞬止めようかと思いかけた手塚であったが、無農薬である事を思い出し、まぁ問題はないか・・と出かけた声を引っ込める。
齧りついた皮を手に吐き出し、手馴れた仕草で厚いオレンジの皮を剥く。無頼とも取れる行為なのだが、跡部の手にかかると不思議と貴族的であり、音楽的に見えた。、無造作であっても、行動の端はしに育ちの良さが現れるからなのだろう。これが仲間内で見られた光景だとしたら、子供の遊びのように果汁や皮を撒き散らし、手塚が顰めっ面で叱責するような事になるのかもしれない。
「美味い」
「そうか」
「ああ。いい仕事してるぜ。この果樹園の栽培者」
「そうか。祖父に伝えておこう。きっと話が伝わるだろうから」
「いや、本当美味いぜ?どうせなら、連絡先も聞いといてくれよ」
「そんなに気に入ったのか」
「味もいいが、香りも良い。実もたっぷりだし食いでもあるが・・・・生ジュースにしてみてぇな」
「ジュースではないが、母がゼリーを作ったといっていた。後で持ってきてくれるだろう」
「そりゃ楽しみだな」
世辞ばかりでもない快活な笑みに手塚の方も心楽しくなった。これ程喜んで貰えるのならば、栽培者の方も本望だろう。そして母の気遣いにも感謝する。
「これも食べるか?」
机の上に置いていたオレンジを跡部の方に差し出すと、それをじっと見つめた跡部はベッドに座りこんだまま、手塚の顔をまじまじと見返してきた。瞬間、どきりと胸が高鳴るのは仕方が無い。こんな風に、時に無防備な様を曝してくれるのが本当に困る。
「―――お前の分だろ?」
「いや。これは跡部に渡して欲しいと母に言われた分だ。今年は豊作だったらしく、たくさん送ってきてくれたらしい。まだ残っているか、母にも聞いてみよう」
「そりゃ悪いぜ。手塚ん家に届けられた品だろ」
「それはそうだが・・・・ならば、祖父に追加で送ってくれるか聞いて貰うとしよう。それが届いたら、また来ると良い」
「んだよ、餌付けかよ」
「気に障ったか?」
「―――いや?んな、しょぼくれた面すんじゃねーよ。ったく、俺が天邪鬼なのはよく知ってるだろうが」
「・・・・・・自分でわかっているのはどうなんだろうな」
「いーんだよ。俺様はこれでな」
にやりと笑う跡部の笑みはそれでこそ跡部と言い切れるようなもので。思わず確かにこれで良いのかもしれないと納得してしまう手塚なのだった。
まだ現れぬ母に、何か手の離せぬ用事が入ったのかもしれないと思った手塚は、跡部に断りを入れると下へと向かった。
思った通り、母は用事というか、電話に掴まっていた。手塚を見ると、すまなそうに眉目を寄せる。その母に気にしないで下さいと首を振り、しゅんしゅんと湯気を立てるヤカンの火を止めた。美味い紅茶は熱湯よりも、沸騰する寸前の湯で淹れるのがいいんだぜ?と前に跡部に聞いたような気がするが、沸いてしまったものは仕方がない。そういう点、手塚はかなりアバウトである。何しろ玉露ですらも沸きたての湯で淹れようとしたりするのだから。
硝子の器に盛られたゼリーと、ティーサーバーに茶葉の方は用意してあった。跡部を客として迎えるまで、手塚は自家にそのような品があるとは知らなかったが、それを母に言うと「国光はそうよね」と笑われたものだ。
手を拭くものも必要かと思い、フキンを水で濡らし、紅茶用のカップと一緒にトレイに乗せる。まだ終わりそうにない電話口の母に「あとは気にしないで下さい」と一言告げ、跡部を待たせている部屋へと戻った。
しかしながら、部屋に入った手塚は紅茶をカップに注ぐ事なく机の上にトレイごと置いた。供する相手が手塚のベッドの上ですやすやと寝入ってしまっているのだから仕方ない。
穏やかで力の抜けたその表情を眺めると、起こすに忍びない。跡部は学内に限らず、家業に関わる方面でも多忙を極めていると聞く。恐らく疲労が溜まっているのだろう。寝入る跡部を見る手塚の目は、いつになく優し気なものとなった。
跡部の手の中に握られたままのオレンジに目が止まり、そっと手を延ばすと握られた手は難なく開かれた。オレンジを取った瞬間、ふと微かに鼻腔を擽る香り。そういえば素手で食べていたなと思い出し、手塚は濡れたフキンを取りに行く。
起こしてしまうだろうかと気遣いながらそっと跡部の手を取るが、跡部はすっかり熟睡してしまっているのか身じろぎひとつしない。無防備というか無警戒にも程があるな、と苦笑が沸く。最も、この状況で普通は警戒など抱くものではないのかもしれないが。ただし相手は跡部であるので、自分の前に限らず少しは注意して欲しいと思う。
あれだけテニスに明け暮れている割には細く優美な白い手を取り、そっと拭う為に濡れたフキンで触れようとした―――――のだが。手塚は無意識の内に跡部の手を己の口元へと運んでいた。
意識せぬまま、涼やかな香りに誘われるように触れる、唇。柔らかな指を舌でなぞると微かにオレンジの味が伝わった。
はっと、瞬時に意識が戻る。
自分が何をしたのか信じられず、驚愕した表情で己の手と、掴んだままの跡部の手を見る。
舌に残る甘い苦さは、間違いでも勘違いでもなく・・・・・・・跡部に触れ、跡部の指を舐めたのだと、再確認させられる。
「―――――何を・・・・俺は・・・・・・・」
衝撃の冷めやらぬままに、機械的に手を動かし、乾いた果汁の残る跡部の手と指を丁寧に拭う。その間も跡部は目覚める事はなかった。
手塚はまだ、あのオレンジを一つも食していない。
美味しいオレンジだと、父も母も祖父も―――――跡部も、声を揃えて言った。
手塚の舌に残るオレンジの味は甘く・・・・・・少しばかり、苦い。
忘れえぬ味となりそうだった。
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