ハロウィーンパーティをしましょう――と誘われて、手塚家の門をくぐった。
手造りのランタン。かぼちゃのプティング。かぼちゃのパイ。ターキーとかぼちゃのサラダにかぼちゃのスープ、etc。
その幾つかは跡部が作り、持ち込んできた品だった。
普段は和食がメインの手塚家の食卓が、この日ばかりは西洋カブレとなったわけだが、手塚家の誰もが楽しそうであったので、跡部も腕によりをかけた甲斐があったというものだ。
「今晩は泊まっていってね」
「帰れますよ?」
「うちから学校に向かえば良いわ」
「・・・・・・・はい」
手塚の母である彩菜がそう言ってしまえば、跡部としては逆らえない。
なるほど最初から計画していたのか、と手塚家に着いて早々に制服を引き剥がされた理由が今更ながらにわかった。
調理をするのに汚れてしまうから・・・・という忠告をそのまま受け入れたが・・・これはどうやらいつの間にか洗ってくれたのだろう。致し方ない時を除き、跡部は2日続けて同じシャツを着る気にはなれない。それを知っての事だろうが。
手塚家は居心地の良い場所であるので、跡部としても泊まる事に異議があるというわけではない。まぁ良いか、と早々に降参する事にし、跡部は腰を据えて落ち着く事にした。
ところ狭しと盛り付けられていた御馳走はあらかた片付いている。育ち盛りの少年二人(・・・・まぁ外観的には色々と異を唱える者も少なくないかもしれないが)が旺盛な食欲をみせれば当然の結果だろう。そして、手塚の祖父である国一も、その年齢に似合わぬ結構な健啖家であるのだ。皿いっぱいの料理を並べるのも良いが、それがまた綺麗に片付けられるもの気持ちの良い事だった。
戸棚の脇には籠に盛られた林檎が艶々と輝いている。デザートにするのかと思ってたが、今日はそれは出さないようだった。
手塚の部屋でめいめいにゆったりと時間を潰す。お互い、沈黙が苦となるタイプではないので、二人きりともなれば殆ど会話を交わさぬ事も珍しくなかった。
コンコンと扉が叩かれ、近い位置に居た跡部が扉を開けた。予測するまでもなく、立っていたのは彩菜であって、その手の中には綺麗に切り分けられた林檎が皿に盛られている。
「国光と食べてね」
「・・・・・・ありがとうございます」
手渡されたのは、林檎の小山と2つの手鏡。にっこりと微笑む彩菜にそれを渡した彩菜に、跡部は何を求められているか、わかってしまった。
――――理解したくはなかったけれど。
「跡部、どうかしたのか?」
母親を見送った後にくたりとしゃがみこんだ跡部を手塚が心配そうに見やる。そんな手塚に「お前はいいよなぁ・・平和で・・」と、羨むような言葉を投げかける跡部。そんな跡部に、手塚は言われなき非難を受けたような気がして、「どういう意味だ」憮然とした顔で返す。
「・・・・・・おらよ」
「鏡がどうかしたというのか?」
「林檎を食いながら、振り返らずにその鏡で俺を映せ―――ってのが、彩菜さんからのお達しだ」
「手鏡とは自分を映すものではないのか?」
「あー本来はなぁ。ちなみに俺は逆。てめぇを映すわけだ」
「説明を求めたい所なんだが」
「聞かねぇ方がいいと思うけどな?明日、完了報告だけしといた方が心の平穏を保てると思うぜ?ちなみに報告しねぇと家庭内平穏は保てねぇかもな」
「―――跡部はそう思うのか?」
「心の底から」
「・・・・・・お前の忠告に従っておく事にしよう」
「賢明だ」
何故だか二人、顔を見合わせ揃って溜息の洩れるハロウィーン当日、真夜中の出来事だった。
ハロウィーンの真夜中にリンゴを食べて、後ろを振り返らずに鏡を覗くと将来の伴侶の姿が映るという――言い伝え。
それは、将来の結婚相手を知るおまじない的言い伝えであるが・・・・来年あたり、夜中に手塚と二人、畑に追いやられそうだと、今ひとつの言い伝えを思い出し、跡部は来年のハロウィーンもこうして一人疲れる羽目に合うのか・・・・と、いっその事、死なば諸共ではないが、運命共同体的に手塚にも教えてしまおうかと、思わないでもない。
Trick or Treat?
ハロウィンのお祭り、定番の言葉が頭を過ぎる。
仮装をしつつ、無邪気にハロウィーンの夜を遊んだ幼い頃が、ひどく懐かしく思えた。
(家族の肖像 /Halloween 編)
戦い済んで日が暮れて。
10月4日という決戦の日を終えた氷帝学園内は、浮き立ったような高揚感と喧騒の名残を残したまま、日常生活へと戻っていった。
生徒達も気怠い通常授業へと戻り――というわけではなく、その日はまた別種の大きなイベントがあった為、全校生徒揃って他校に類を見ない巨大な体育館内へと出揃っている。
整然と並べられた椅子の上に座り、神妙な面持ちで壇上からの演説を聴く。
この日は、氷帝学園の次期を担う生徒会人選を行う、生徒会総選挙の日であったのだ。
本来はこの選挙は9月に行われる。
元々の予定でも、9月の中旬に予定されていた。しかしもろもろの事情により、無理に敢行するよりは日延べをした方が良いだろうという決定が下された。
その裏で、もう少しだけ跡部景吾に生徒会長で居て貰いたい――という思惑が生徒に――教師の側にも無かったとは言い切れない。
そしていつならば良いかという日にちの調整をしたのだが、跡部の言としては「あまり愚図愚図していても仕方がない。10月に入ったらすぐにでも」というものだった。その主張には、誰も反論しないものの、幾つか軌道修正案は出た。
それというのも、10月の頭、いまさらの事だが4日といえばこの氷帝学園内屈指の名物会長である跡部景吾の誕生日なのだ。たかだか一生徒の誕生日に何を言う、と外部の者ならば失笑を浮かべるかもしれない。だが、一度でもその日に氷帝学園内に足を踏み入れた者ならば、二度と余計な口は挟むまい。何しろ学園を挙げてのお祭り騒ぎになるからだ。
結局、その日の前では皆気もそぞろでお話にもならないだろうという事になり、開けて翌日の5日に総選挙が行われる事となったのだ。
前日の馬鹿騒ぎが嘘のように、生徒達は皆静かに椅子に座り、演説に耳を傾けている。
進行は滞りなく過ぎていき、最後に現会長からの挨拶で締めくくりとなった。
全員が一挙一動注目する中で、静かに中央へと跡部が歩いていく。痛い程の注視にも跡部が動じる事はない。
「これにて、本年度の生徒会総選挙を終了致します。最後に現会長として一言言わせてください」
「・・・・・・・・・・・・」
しん、と元々ざわめく者などない体育館内がさらに息さえ止まるような静寂に包まれる。
「一年間、ありがとうございました」
優雅に、ゆるやかに、跡部が頭を垂れる。止め絵の如く、綺麗な姿勢。静止はほんの、5秒かそこら。
静まり返った体育館。
跡部を見つめる目と目と目。
ゆっくりと、元の姿勢に戻り、生徒達を見回した跡部の前には、全ての生徒達の立ち上がった姿があった。
「ありがとう、ございましたっ!!」
誰かが、合図をしたわけではない。
しめしあわせたわけではない。
それでも――
体育館を揺るがすような盛大な唱和の後に、生徒達は全員が揃って跡部に向かい、深い、深い礼を向けた。
放課後の帰る際に、跡部の耳元に忍足がそっと「いつ、氷帝コールが入るかひやひやしたで」と囁くと、跡部は「ばーか」と、ちょうど手に持っていたノートを丸めて忍足の頭を軽く叩いた。その表情は少しばかり呆れたようなものであったけれども、僅かに照れ臭そうな色が混じっていた。
跡部は一人、陽も差さぬ部屋の奥でじっと佇んでいた。
人気の絶えた家屋の中で、古ぼけた畳の上には日々埃が積もっていく。
家が死んでいく。跡部の存在意義を失ったまま、かつては生気に満ちていたこの家は、何れ消え行くのだろう。時の流れに風化していくのではなく、巨大なブルドーザーに呑み込まれるようにして押し潰されていくのかもしれない。その時、跡部はどうなるのだろうか。合間見える事もない同胞達は、そうして消えていったのだろうか。
どれほどの時が流れたのかわからぬままに、孤独の中で佇んでいた跡部はその日、今までにない変化に長らく出る事のなかった部屋から一歩踏み出した。
人の手が入らぬ荒れ放題の庭の一角が揺れる。不意の闖入者の存在によって、静寂は破られた。
「・・・・・・っ」
「――挨拶ぐらい入れるのが礼儀じゃねぇか?」
「お前は・・・・」
地面にへたりこんだ相手を見下ろすように跡部は声をかけた。気遣う気もなければ、排斥するそぶりもない。その反応に相手はほっと小さく息をついた。
「ここはお前の住処だったのか。すまない。少しだけ休ませてくれないか。すぐに出ていく」
「別に困るような奴は誰も居ない。居たいのならば好きにすればいい。歓待の類はできねぇが、中に入るか?そこに居るのが好きなら別に無理にとは言わねぇけどよ」
「いや。できれば屋根のある場所の方がありがたい」
「・・・・・・中へ入りな」
「すまない」
誘われて立ち上がる様は、どこか疲れ果てているように見えた。
「誰も住んでいないのか」
「ああ、『人間』はな」
「お前はいつまでここに居るんだ?」
「いつまでもだろうな。俺は『ここ』に憑いている。『ここ』が始まりで『ここ』が終焉だ」
「そうか。住まう家を持たぬ俺とどちらが幸福なのだろうな」
「はっ、『貧乏神』が幸福談義かよ。お笑い芸人目指すつもりなのか?」
「・・・・・・『座敷童子』のお前からすれば笑える話なのかもしれないな」
「随分殊勝なもんだな。人の運を吸い取る生き方に嫌気が差したか?」
「それでも俺は俺としか生きられない。他の生き方を選びとる事などできないんだ。お前がこの家を離れられないのと同様にな」
「その点は否定しないでいておいてやるよ。部屋なら幾らでも空いている。好きに使いな。居座るのも自由。出て行くのも自由。てめぇが言ったように、俺様以外はここから出て行く事ができる」
「―――すまない」
「別に気にしちゃいねぇよ」
「どこへ行くんだ?」
「休むなら一人の方がいいだろ。用事があるなら呼びな。どうせ外にゃ出れねぇから、そこらに居る」
「もしお前が構わないのならば・・・・」
「跡部だ」
「跡部、か。跡部、ここに居てくれないか?」
「・・・・・・・寂しいのか?」
「ああ。そうなのだろうな」
肯定の言葉を放ちながらも、その表情には感情の揺らめきは見て取れない。見た目通りの感情欠落者なのか、それとも内面に抑えこんでいるのか。恐らくは後者であろうと跡部には思えた。
「ふ、ん。どうしてもってんなら、付き合ってやってもいいけどな」
「どうしても」
「なら、まずは名乗りな。「おい」「てめぇ」でいいなら話は別だが」
「名を呼んでくれるのならばありがたい。『手塚』だ。『手塚国光』」
「跡部景吾だ。てめぇ、腹は減ってんのか?」
「名を呼んでくれないのか?」
「・・・・・・手塚よ、てめぇマイペースな奴だな」
「よく言われる」
「そうかよ。大したものはねぇけどな。軽いもんだったら用意してやる」
「ありがとう。嬉しいものだな、名を呼ばれるというものは」
「・・・・・・・・礼はそっちにかよ。本気でマイペースな奴だな」
呆れた口調の跡部に、手塚は薄く笑みのような表情を浮かべた。
仕入れる者の無い食料庫。ありあわせとはいえ並べられるものなどそうはない。
干物の類を数点水で戻し、いつのものだかわからない缶詰を見つけたのでそれも開けた。
「馳走になった」と、手を合わせ堅苦しい礼を言う手塚にこれもある意味嫌味だよな、と跡部は薄く笑う。その表情を見咎めた手塚に「何故笑う?」と問われたが明確な答えをだせるわけでもなかった。
見てくれ同様時代錯誤に堅苦しい手塚の物言いがおかしかったのかもしれないし、今この状況に愉快さを感じているのかもしれないし、単なる自嘲の笑みかもしれない。
だが人ならざるものだとしても、会話を交わす相手がいるというのは悪くないと思えた。
静かな佇まいで正座し、茶をすする手塚にちらりと視線を向けながら、ここはこれほどまでに静かだったのだと今更ながらに思う。手塚は多弁な方ではない。むしろ必要最低限の事しか口にせず、先程から交わした会話とて数える程だ。
だがそれでもこの静謐さを伴う沈黙は、孤独を誘うものではなかった。
食欲など失せたきりの跡部は、用意した食事は手塚に全て差し出した。喉の乾きはわずかに覚えたので茶だけは用意した。二人の前には不揃いな湯飲みが二つ並んでいる。
家具の一部をそのまま捨てるものとして、前の家人はそのまま置いていった。跡部の記憶の中ではそれらが真新しい品であった頃、それは輝く笑顔で大切に磨いていた姿を思う起こす事ができる。彼女の、彼らの孫や息子達にとってはそれらは古ぼけた単なるゴミでしかないようだったが。
「いつもこういう食事なのか」
「あ?粗末な食事が気に入らねぇって?」
「そういう意味ではない」
「仕方ねぇだろ。仕入れる先もないんだからよ。そいつが残されてた最後の食料だ。次からは自分で調達してこいよ」
「俺はお前の最後の食事を奪ってしまったのか」
「別に腹減ってねぇし。飢えて死ぬ事もないしな」
「それはそうかもしれないが。――貨幣はあるか?」
「貨幣って、いつの時代の話だよ」
「年代物だ。お前もそうだろう?」
「てめぇと同一化されんのは、はっきりいって気に入らねぇな。そこの絵の裏。額縁外した所に隠し金があんぜ。ここの曾爺さんだかが貯めてた奴だけどな。息子達に伝える前に息引きとっちまった。絵の方は古臭ぇ価値なんざねぇもんだから、置いてっちまったんだ」
「そうか」
手塚は小さく頷くと壁際に寄り、かけられた絵を外した。
「なるほど。結構あるな。これは警察に届けた方が良いのだろうか」
「貧乏神が拾得物の届けもんかよ。何の冗談だそりゃ」
「まあそうだな。さすがは座敷童子の効果というやつか」
「はあ?てめーなんかに作用してたまっかよ。まあそいつは好きに使いな。どうせ使い道もねぇしよ」
「そうさせて貰おう。今から買い物にいくか」
「ああ行ってこい。好きにしやがれ」
「お前も行くんだぞ?」
「はぁ?ちょっ!ひっぱんなよ!」
手を引かれるままに跡部は外に出ていた。
「・・・・・・・・・」
「お前以外の存在にならば連れ出せるようだな。このままどこかの家に連れていってやろうか?」
「―――買い物すんだろ」
「ああ。では行こう」
跡部の答えに手塚は柔らかな笑みを浮かべると、掴んだ手を握り直した。
人ならざる存在故か。いやそもそもの性質が贅沢を好まないだけとも言えるのだが、二人で暮していく分には充分だった。
食糧が尽きれば買出しに行き、折角庭もあるのだからと小さな菜園まで作りだした手塚を横目に、こいつの貧乏はもしかしたら貧乏性ではないだろうか?などと思わなくもない跡部だった。
人の居ない古ぼけた家屋。訪ねてくる者もなく、増えたのは寡黙過ぎる程の寡黙な手塚。当然ながら喧騒などは程遠く、日々は静かに過ぎていった。
それでも自分以外の者が存在するというのは随分と違うもので、見よう見真似の人真似のようであるが、跡部も一応人間らしい生活のようなものを志してみた。大した事ではない。埃を掃い、部屋を片付け、壊れかけた戸を補強したり、あまりに雑草が蔓延る庭の手入れをしたり。ここに人が住んでいた頃、彼等がやっていた事だ。跡部はずっとそれを眺めるだけだった。
ある日、例によって手塚に連れ出されて買出しに出かけた先で、手塚が凍りついたように立ち止まった。「おい?」と、声をかけると、はっと驚いたように振向いたその顔は、どこか脅えているように見えた。
「‥‥‥行こう」
「って、おい!」
強く引張られて引きずられるままに跡部はその場を離れるしかなかった。視界の端に、何やら張り出された紙が見えたが、詳しく見る事はかなわなかった。
それから数日の間、手塚は塞ぎ込んだように酷く沈み込んだ。元々明るい性格の奴ではないが、それにしても暗過ぎだろ?と思わず慰めようとしてしまったぐらいだ。外にも出たくないようで、日がな一日暗い部屋の隅で正座して何か考えこんでおり、もしや此処に居る事が嫌になったのだろうか、と思った瞬間、跡部の胸の奥につきりと痛みが走った。
出て行きたいのならば出て行けば良い。そう思うのに口に出せない。言ったが最後、手塚は本当に出て行ってしまうだろう。そして、二度と戻ってこないに違いない。
「――手塚」
「‥‥‥‥‥」
「手塚っ!」
「――あ、あぁ。すまない。呼んだか?」
「‥‥‥随分塞ぎこんでるようじゃねぇか。ここに厭きたのか?出て行きたくなったのか?」
手塚の様子を気にしながら、どうにもできない状況に耐え切れなくなっていた。決断するなら早い方が良い。先延ばしにしたところで結果が同じならば、さっさと引導を渡された方が良い。
「‥‥‥出て行く?」
「行きてぇんだろ?こんな所で隠遁してるのが嫌になったんだろ。てめぇは俺と違い、自由に外を歩ける。気遣う必要はないぜ。好きにすればいい」
「―――‥‥‥ないでくれっ」
「て、手塚?」
突き放すように嘲笑すら浮かべて言い切る跡部の体を、力いっぱい縋るように手塚が抱き寄せた。まるで跡部だけが救いであるかのような、そんな必死さがあった。
「‥‥‥‥追い出さないでくれ」
「‥‥‥別に、追い出すつもりはねぇ。お前の自由にしろと言っただけだ。‥‥出て行きたいんじゃ、ねぇのか?」
「――此処以外に何処へ行けと?俺は貧乏神だ。人にとっては疫病神でしかない。人を不幸に陥れるだけの存在だ」
「まぁ、そりゃ‥‥幸福にはできねぇだろうけど」
「それなのに、彼等は‥‥俺は――不幸になどさせたくなかったのに――」
「‥‥‥‥」
手塚の言葉は跡部に向けられたものではない。何か他の――恐らくは人間に向けての言葉だ。伊達に人の傍で長く暮してきたわけではない。手塚の苦悩の原因が何であるか、大体の当たりがついた。
「話してみろよ」
「‥‥‥‥‥」
「聞いてやるから」
「‥‥‥跡部」
縋りつかれた胸に、湿ったものを感じる。手塚が泣いている。そう気づいた跡部は、宥めるようにゆっくりと手塚の背を撫でた。
手塚の話はそう長いものではなかった。貧乏神として、人の運を少しずつ掠めて生きていく事は自分の性質であると割り切ってはいたらしい。だがある時、手塚はほんのちょっとしたへまをした。普段は人間の目に映らないようにしているのだが、犬に吠えられた瞬間に一瞬意識がそちらにいってしまい、人間の前に姿を現してしまったのだ。
最初は驚かれたようだが、すぐに彼等は打ち解けて手塚を家族の一員として扱うようになったらしい。楽しかったと、笑う手塚の顔を見て、泣いてるみてぇ、と思えた。
小さな事故はよくあったようだ。ちょっとした怪我や、ちょっとした紛失物や、ちょっとした諍いに巻き込まれたり、因縁をつけられたり、何やかやと。詫びる手塚に彼等は「気にするな」「何という事はない」「大丈夫、大丈夫」と明るく笑い飛ばしたという事だ。
離れなければいけない、長く共に居ればもっと大きな被害をもたらしてしまう――そう危惧しつつも、居心地が良すぎて――今まで知らなかった温かなその手を離せなくて、手塚は出て行く事ができなかったらしい。
そんな時に、家族の一人が事故に会った。前方不注意の車にはねられてしまったのだ。命に別状こそなかったものの、足の骨を折り、顔の擦過傷に大きなガーゼを貼ったその姿で、「すぐ治るって。問題ない」と、朗らかに笑う彼に、手塚はもうここに居ては駄目だと今度こそ思い切った。
自分さえ居なければ、事故など起きなかっただろう。もし事故に遭ったとしても、もっと軽い怪我で済んだに違いない。好きな人達が自分のせいで不幸になる。その事実が耐えられなかった。
「それで、飛び出したのか」
「ああ。前の生活に戻るだけだ。だが、何をする気にもなれなくて、ただふらふらと歩き回っていた」
そうしているうちに、跡部の居るこの家に辿りついたという事らしい。だがそれだけならば、今更憔悴する理由にはならない。
「――探してるのか?」
「何故、それを‥‥」
「俺様は何でもお見通しなんだよ。そいつら、手塚の事を探してるんだろ?」
「‥‥放っておいて‥‥‥くれればいい‥‥」
「無理じゃねぇ?話に聞く限りでも、そいつら最大級のお人好しだろ。多分、てめぇの事を必死に探してるんだろうぜ。その怪我をした当人もな」
「‥‥‥だが、俺はもう‥‥」
「そいつらがいいってんなら、いいんだよ。小せぇ不幸なんざ笑い飛ばしてしまえる奴等なんだろ。てめぇが消えちまう方が嫌だなんて、化け物冥利に尽きねぇか?それとも、そいつらが嫌になったか?」
「嫌えるものかっ!」
「だろうな。―――おら、迎えが来たようだぜ。ったく、大した熱心さだ。手塚よ、お前余程、好かれてんだな」
「‥‥‥‥」
ドンドンと、戸を叩く音と、「誰か居ませんかーっ!」と張り上げる声。手塚の反応からして、その声の主に心当たりがあるのは明らかだった。
「行けよ」
「―――跡部、お前は?」
「俺は出れねぇって。此処に居るから、泣きたい時だけ来りゃいい。少しは慰めてやんぜ?」
「共にならば、出れる」
「あ?」
「一緒に行こう」
「‥‥‥‥寝言抜かしてんじゃねぇ」
「本気だ。彼等は家族は多い方が楽しいと言っていた。きっと跡部の事も歓迎してくれる」
「おいおい勝手に決めんなよ」
「――それに」
「それに?」
「跡部は座敷童子だ」
「まぁな」
「貧乏神とは正反対とも言える。互いの能力がかけあって、何か別の方向に作用するかもしれない」
「‥‥‥可能性はないでもないな」
「俺は、彼等をもう傷つけたくない。それでも――彼等が俺を受け入れてくれるのならば、彼等と居たい」
「‥‥‥‥・・」
「それから、本当はこれを一番先に言うべきだったのだろうが・・・・できれば跡部とも離れたくない」
「・・・・・・・・・」
真摯な訴えを前に、跡部の心は揺れた。いつも置いていかれる自分を連れ出そうとする相手。どうしてその誘いに惹かれずにいられようか。
「―――ったく、仕方ねぇな。俺様の力が必要だって?反作用を起こしたらどうすんだよ。ま、相殺ってところが妥当な所だろうが。座敷童子ったら、家に繁栄をもたらす存在なんだぜ?能力が無ければただの極潰しじゃねぇか」
「駄目だろうか」
「・・・・・・付き合ってやるよ。おら、扉を壊される前に出迎えてやろうぜ」
「―――ありがとう」
「ふん」
手塚の晴れ渡った空のような笑みの前にして、跡部は照れ隠しのようにそっぽを向いた。
(END)
元ネタそのまま罪と罰
この世の中には逆らえない存在というものがあるもので。
「逆らってはいけない」ではなく、あくまで「逆らえない」なのだ。
手塚にとって母親とはそういう存在だった。幼い頃は元より、すっかりその背を追い越して久しい今現在となっても。
「明日、景ちゃんを呼んできてね」
帰宅するなり紡がれたその言葉に手塚の表情が能面のように固まる。
今日は機嫌が良いな・・と思えば、どうやら明日の予定に心浮き立っているという事らしい。何故だか母の彩菜は跡部の事を妙に好いている。それは母親に限る事ではなく、手塚家に共通していたりするのだが――何というか自分以外は・・などと手塚は考えている。
「・・・・突然ですね」
「駄目かしら」
「・・・・いえ。一応話はしてみます。ただし、あいつは日頃からとても忙しいようですから、あまり期待しないでください」
「ええ。お願いね」
柔らかに微笑む母にこくりと頷く。恐らく、跡部も二つ返事でOKするだろうと思えた。それは「跡部が忙しい」というのが出まかせという意味ではない。むしろこちらの想像以上に多忙を極めているのではないかと思う。根拠として、間を空ける事はあっても、週に何回かは送られてきていたメールがここ2〜3三週間ばかりさっぱりという事がある。ほんの一言二言の様子伺いすらないのだから、相当なことなのだろう。
それでも、部屋に戻ってからの期待はせずに打ち出した跡部への送信メールへの反応は早かった。5分も立っていないだろう。手塚の方は「明日、うちへ来れないだろうか」との一言限りで久しぶりとも元気かとも何の挨拶もせずに、用件のみを打った素っ気ないものだった。それで跡部の方はといえば合わせて端的に返すというわけではなくて、通話という手段を用いて連絡してきた。
「―――よぉ」
「悪いな」
「いや」
少し声が疲れているな、とは思ったが特に口にはしなかった。言ったところで跡部は綺麗にそれを隠すだろうからだ。
「稀少もののお誘いなんだがな」
「――――」
どこか申し訳なさそうな響きを持つのは、断ろうとしているからだろう。敢えて通話を選んだのは、跡部なりの誠意という所か。けれども手塚は跡部がその先を口にする前に言葉を重ねた。
「―――母がな」
「彩菜さん?・・・・・・・・遅い時間になっちまうが、構わねぇか?」
「何時だ?」
「9時・・いや10時は過ぎるな」
「問題ない」
「わかった。着く前に連絡を入れる」
「待っている」
それだけの会話で電話は切れた。
つくづく簡単なものだ。こんな時、跡部の中で彩菜の存在が一体どういう位置にあるのか、尋ねてみたい衝動にかられる。跡部は手塚のことを特別視しすぎるとよく言われるが、本当の特別視とはそんなものではないと、手塚は彼らに説明したいと思わなくもない。
翌日、夕飯も済み、家族それぞれがゆっくり寛いでいる時に跡部から連絡が入った。1時間程で着くという言葉に壁にかけられた時計を見れば、9時を少しばかり回っている。やはりとても忙しいのだろう。
母に跡部の到着予定を伝え、それまでの間手塚は自室に戻り本を読んでいた。大体のあたりをつけて読みかけの薄い本を選んだので、読後に一息つくとあと5分もすれば着く頃だろうという時間となっていた。
玄関口で跡部を出迎え家の中へと誘う。少し痩せただろうか、と綺麗に伸びた背のラインを横目で観察した。
「景ちゃん、いらっしゃい」
「夜分遅くすみません」
「いいのよ。無理を言ったのはこちらの方だもの。今日は泊まっていけるのでしょう?」
「―――え?」
「遅い時間ですもの。食事は済ませたのかしら」
「ええ。軽くつまみましたので大丈夫です。あの――」
「これから家に帰ると随分遅くなるだろう。母の薦め通り、泊まっていかないか?」
「ね?」
「・・・・・・・お言葉に甘えさせて頂きます」
幾分の逡巡はあったようだが、やはり跡部は母の言葉に逆らわずに頷いた。そのまま、一言断ってから跡部は携帯電話を取り出した。家人へではなく、使用人の誰かにだろう。洩れ聞こえてきた言葉が「――明日、制服を持って来てくれ」と依頼するような内容であったからだ。
下着や寝巻きの類は問題ない。手塚家には跡部専用に常備されているからだ。長く間を空けている時でも母は丁寧に手入れをしている。今日などは最初から宿泊させるつもりであっただろうから、更に問題ないだろう。
「そういえば、何か御用事があったのでしょうか」
「あら。忘れてはいけないわね。はい」
「・・・・・・・・・・・・・チョコレートですか?」
「うふふ。昨日買い物をしていたら、景ちゃんにぴったりのチョコレートを見つけたの」
「ありがとうございます」
少女のように微笑む母に、跡部がことさら柔らかな笑みを浮かべる。微笑ましいといえば微笑ましい光景なのだが、心中は何とも複雑なところもある。それは手塚ばかりでなく、祖父である国一も、父親である国晴も同様だっただろう。
別にこだわる気などないし、世の風潮に踊らされるつもりなど全くないのだが――世に言うバレンタインデーにおいて、手塚は母からチョコレートを貰っていない。父や祖父の反応から見ても、手塚同様であるようだ。
父にすれば今更かもしれない。祖父にすれば、もともと西洋被れな事に興味はないとは言える。手塚にしたところで、バレンタインデーなるものは面倒で厄介だとしか思っていない。だがされどしかし―――なのである。嫉妬というわけではないが、何とも心中は複雑なところなのだ。
「大切に頂きますね。手塚・・いえ、国光君にも同じものを?」
「あら。忘れていたわ」
「・・・・・・・・母さん」
「彩菜さん」
「・・・・・・・・」
にこにこと、今思い出したかのように手を叩く母。困った様子には見えないあたりがまた何ともなのだが・・まぁ家族などそういうものかもしれない。
「国晴さんは職場でたくさん貰いましたか?」
「いや。僕のところはそういう習慣は止めようという話になっていてね。女性と男性の比率に随分の差があるから・・・いくらお返しをするとはいってもね。だから最初からそういう事はなしにしようという事になったんだ」
「国一さんは――」
「うむ。その、まぁ何じゃな。菓子の類は好かんと思われているのかの」
頷きながら言う祖父ではあるが、実は結構甘い物を好む。和菓子ばかりでなく洋菓子も相当いけるクチだ。たまに跡部が差し入れてくれる質の良い洋菓子を、最も喜んで口にするのは祖父である国一だったりする。
「手塚は――」
「告白されても応えられないから、全て断った」
「・・・・・そうかよ」
つまりは手塚家の男共は本年だれ一人としてチョコレートを取得できなかったわけである。
「――――男からでは有り難味も何もないでしょうが」 跡部はそう言うと、小脇に抱えてきた袋の中から小さな包みを3つ程取り出した。
祖父と父へと順番に手渡し、最後に「てめぇにもやる」と、手塚に差し出してきた。
こういう場合であれば、断るなどという事も思い浮かばない。手塚も跡部に対し、ただ「ありがとう」と一言礼を言うだけにとどめておいた。
翌日、夕食の席で父や祖父がバレンタインデーにチョコレートを貰ったかどうか聞かれたとの話をそれぞれがした。どちらも「とびきりの可愛い子から貰った」と、相好を崩して答えたらしい。
手塚はどうかと言えば―――
部のチームメイト達に囲まれて、結局1つも受け取らなかったのかと問い質される事態となってしまい、手塚は「一つだけ受け取った」と答えた。その後の騒ぎといえば筆舌に尽くし難い程で―――何とか答えをぼやかしながら、手塚は相手は「美人」である事と、「極上」であるところまで吐かされた。
手塚としては、少なくとも嘘は言っていない――と思う。
腕にかかる重みに時折顔を顰めながら、手塚は帰途についていた。
抱えた袋と腕に紐をかけた紙袋。どちらもこぼれんばかりの贈り物が詰めこまれている。通りですれ違う者は手塚のその荷物に目をやり、今日という日を思い出し別の意味でため息を吐く。彼らは一様に羨まし気で、嫉ましさすら含んだ視線を手塚に送る。綺麗に背を伸ばし無言で歩き進む手塚はそんな視線に気づいてもいなかった。時折「ちきしょぉぉっ!」と泣きながら走り去っていく者もいたりしたのだが。
「・・・・・ふぅ」
一息重い息を吐くと手塚は荷物を床へ降ろす。こするようにして余計な負荷をかけてきた腕をさすった。
日頃鍛えている身ではあるのだが、必要以上に重く感じる荷物。人の想いなる物がこもっているからかもしれない。手塚にとってそれは喜びを感じる類のものではなかったが。
自らを社交的ではないと自覚している手塚は、こうした機会でなくとも告白される事を苦手としている。思いの丈を打ち明けられても返せるものがない。負担に感じるばかりであった。
断り切れずに受け取る事となってしまったバレンタインデーのチョコレート達。世の男性陣は何を贅沢な!と目を剥く事間違いないであろうが手塚にとっては憂鬱の種でしかない。
コンビニの前で柵にもたれるようにして一休みしていると、扉の前でたむろっていた数名の若者達が慌てたように散っていく。彼らのそれは手塚の存在によって行動だ。傍目には変わらぬように見える手塚の表情であったが、眉間の皺は常より深く刻まれる。何のつもりだ!と部員達を怒鳴るように叱り付けたい気分だ。そんな手塚の背に聞きまちがいようのない不思議な甘さを含んだ声がかかる。
「覿面だな、『手塚先生』よ」
「・・・・・跡部」
耳に馴染んだ声に振り向けば、そこにあるのは予測に違わぬ姿。笑いを堪えて口元に拳を当てた表情は、いつもの知れた高慢とも言える笑みとは異なり近寄り難さを払拭したものだ。
「誰が『先生』だ」
「くく。学ランも大した効果にゃなんねぇようだな」
「・・・・・・・・・・・」
黙り込む手塚に跡部は今にも軽やかな笑い声を立てそうだった。ここで笑い転げれば手塚の機嫌を完全に損ねるとわかってか、自重をしているようではあるが‥・・いつになく機嫌の良い様からしてもその内心など知れようというもの。
「俺は中学生だ」
「だよなぁ。同年だもんなぁ」
「断っておくが跡部、お前とて年相応には見えない」
「は。否定はしねぇが俺様は学生の範囲内だ。なぁ、手塚センセイ?」
「・・・・・・・・・・・・」
跡部という男はどうしてここまで人の神経を逆撫でする事ができるのだろうか。手塚はそんな風に腹立たしく思うが口で跡部に勝てた試しはない。
「俺様は『大人びている』。てめぇは『老けてる』。この差はでかいよなぁ?ま、安心しろ。立海の真田ってお仲間が居んだろ?」
「・・・・・・・・・・・一緒にするな」
憮然とした表情の手塚に堪え切れなくなったのか、跡部はくっくと笑い声を立てた。こうして楽しげに笑われてしまうと毒気を抜かれてしまう。手塚にとって跡部とは実に厄介な相手だった。
「悪ぃ悪ぃ。実際のてめぇは結構ガキっぽいよな。外見だけで判断する奴にゃわからねぇだろうが」
「もういい。それより店に入らないのか?」
「ああ。喉が乾いたんだが小銭の持ち合わせがなかったんだよな。飲みもん買ってくる。しかし、それバレンタインのチョコだろ?大漁だな」
「半分ゲームみたいなものだろう」
「・・・・ふぅん」
跡部は手塚の言葉に軽く眉を上げたが、何も言葉は挟まず店内へと入っていった。
「――おらよ」
「すまない」
放られた缶を利き手で受取る。手の平に治まった缶はじんわりと温かみを手塚に伝えた。
「お代はいらねぇぜ。ま、たまの気紛れだ。奢られておけ」
「・・・・・・・・・・ありがとう」
鞄から財布を取り出そうとした手塚の先を跡部の言葉が制する。恩に着せない為なのだろうが、上からの物言いであるのに高圧的ではない、跡部ならではの言い回しかもしれない。
そのまま二人、温かな飲み物をすする。
ようやくひと心地ついた気分となると、周囲を見る余裕も出てきた。跡部はよく後輩の樺地を引き連れて、荷物を持たせている事が多いが今日は一人きり。けれどもほぼ手ぶらのような状態で鞄の一つも持っていないようだった。
跡部という男がその中身はどうあっても、女性に大層人気があると手塚ですら認識していた。けれども今跡部の手元には手塚のように押し付けられたプレゼントの類は見当たらない。
「貰わなかったのか?」
「あ?主語を言え」
「・・・・・・チョコレートだ」
「はっ。この俺様が貰わねぇわきゃねぇだろ。一人で持ちきれるような量じゃねぇ。家に送ったに決まってんだろ」
「そうか」
やはり大量に貰ったらしい。何となく跡部とバレンタインのプレゼントという組合せで考えると、眩暈を起こすような量なのではないかと思えた。
「跡部は断ろうとは思わなかったのか?」
「全て受取らない。それも一つの手だろうがな、全否定ってのもどうかと思うぜ。ま、全てが本気ってこたぁねぇが、受取る時に応える事はできないと言い切ってはいる。それでも良いってんだよ。健気とでも言うのかねぇ」
「・・・・・・・・・・」
ふっと緩められた跡部の表情は酷く優し気だった。跡部は恐らく全ての送り主に礼をするのだろう。思いの分だけ真摯に回答を――自分には真似のできない事だと思えた。
「てめぇはどうせ、仏頂面で迷惑そうに受取ったんだろ」
「・・・・・・・・・・」
「少しは気ぃきかせろよ。ぬか喜びさせろとまでは、言わねぇけどな」
「――――ないからな」
「あ?」
「どうせ、本命から貰える事はないからな」
「――――は。堅物の手塚国光にもそういう相手が居たってのか。くく。いいんじゃねぇの。悩めよ青春、苦悩せよ若人ってところだな」
「・・・・・・跡部の思考の方がずれているようにしか思えないが」
「うるせぇよ。おら、とっとと乙女の愛を抱えて帰ってやんな。てめぇみたいな奴は、一度吐くまでチョコレートに塗れて鼻血でも噴きやがれ」
何とも理不尽な事を言われて追いたてられる。仕方なしに立ち上がり、荷を抱え上げた手塚の前に立った跡部は、満杯の袋の上に更に上乗せしてくれた。
「・・・・・・・・・跡部?」
「嫌がらせだ」
「・・・・・・・・・・・・」
にぃと悪戯っぽく笑んだ跡部が手塚に押し付けたのは何の特徴もない一枚の板チョコレート。恐らくはコンビニで買ってきたのだろう。
跡部の狙う所は、言葉通り板チョコレート1枚分の負荷という嫌がらせだったのだろう。
だが――――
狙いは外れ、跡部によって手塚にもたらされたのは・・・・板チョコ一枚・・・・70グラム分の幸福。
「――――まだまだ甘いな、跡部」
その後の手塚は、抱えた荷の重みなど感じぬかのように足取り軽く帰っていった。
熱を出した。
起き上がる事もできない程の高熱というのは、小学校以来かもしれない。
今日は久しぶりに跡部と外で待ち合わせて出かける予定だった。けれども朝からこの状況で、自分で断りの電話すら入れられない状態。予定の方は母に話していたので、熱が出て行けないと母が伝えてはくれたようだが、全くもって情けない。部を引退してより油断しすぎたのかもしれない。
うっすらと開いた視界は朦朧としており、歪んだ天井は明確な形をとっていない。時間の経過すら曖昧で、今が昼なのか夕方なのかもわからなかった。
階段を昇ってくる音が聞こえる。目を開いているのが億劫すぎて、ゆったりと閉じた。
「―――寝ているみたい」
「そうですか」
「ごめんなさいね。折角来てくれたのに」
「病人の見舞いですよ?相手が元気に起きている方がおかしいでしょう」
「あら。そうかもしれないわね。国光が起きたら跡部君が来た事を伝えておくわ」
「別にかまいませんよ。少し、部屋に入っても宜しいでしょうか」
「国光の風邪が移ったら大変よ?」
「大丈夫です。少しだけですから」
「そう。下でお茶の用意をしているわね」
「ありがとうございます」
二人の会話から、跡部が見舞いに来てくれたのがわかった。
けれども更に上がった熱に苛まれ、声を出す事すらできない。
そっと、額に触れる手。ひんやりとして気持ちが良い。
「結構上がっているな。まぁ、さっさと治せよ。それと、先に断っておくが、俺が熱出した時は見舞い禁止な」
「・・・・・・・・・・・」
「玄関先でブロックするから無駄だと言っておく。俺様はてめぇから移りはしないが、俺様から移すわけにはいかねぇからな」
「・・・・・・・・・・」
待て。それは理不尽じゃないのか・・・・
そう訴える事もできぬままに・・・・跡部の気配は離れていった。
跡部ってさぁ、本当に手塚の事良く見ているよね
別に手塚ばかりじゃねぇ
ふふ
・・・・・・・・
何か君達、変にツーカーなところあるし。どうなの?将来的には
何が言いてぇ
ダブルス組んだりするのかな、って事。手塚のダブルスなんて他の誰でもお笑い草にしかならないけど、まぁ例外もあったって事かな
やらねぇよ
どうして?
―――――
跡部の答えに不二は深い笑みを浮かべた。
「と、まぁそんな事があったんだけどね」
「・・・・・・・・」
「どうしたの?いつにも増して機嫌そうだけど」
「・・・・・・」
下級生あたりならば泣いて謝りそうな渋面を前に、不二は全く気にする風でなくにこにこと微笑みを浮かべていた。
「不二先輩。わかっててやってるからタチ悪いっスよね」
「ははは」
離れた位置で見守る仲間達を他所に、不二はからかいの手を止めない。教師も一目を置く青学テニス部部長たる手塚で遊ぶのは彼ぐらいなものだろう。
「君とダブルス組むのだけは嫌だってさ。理由聞きたい?」
「別にいい」
「腹立つからだってさ」
「・・・・・・・・」
断りをいれたというのに、不二はといえば頓着しない。手塚は小さく溜息を吐いた。
「こちこそお断りだとか言わないの?」
「・・・・今の俺にはその価値が無いという事だろう」
「ふうん」
怒るでもなく淡々と言い切る手塚がお気に召さないのか、不二はつまらなそうな表情となった。
それで本当の所はどういう話なんだい?
本当って?
不二先輩、言ってない事あるんじゃないんスか?
越前は結構鋭いね。
鍛えられたんす。
ふふ。まぁ、ね。
・・・・・・やっぱり。
嘘は言わなかったよ。全部を伝えなかっただけ。
それで。あの人何て?
「相手コートに居るのが自分じゃねぇ。・・・・面白くねぇだろ」
だって。
・・・・・・なるほど。
本当、あの人って。
ね。何か馬鹿らしくなるというか、むかっ腹立つよね。
それで意趣返しか。
そう。面白くないから。
・・・・・・・・・・・・
くすくすくすと笑う不二に可哀想に、と手塚に同情を抱かぬでもないが、思うところは同じであったかもしれない。