01.雨の音に落ち着くのはあなたの鼓動に似てるから
自室の窓を叩きつける雨に、近頃雨が多いな、と憂う。
雨の中では自由に動き回る事ができず、室内でのトレーニングが中心となる為、好ましいと思える気候ではない。見上げる空に眩しい程の青こそが、好ましかった。
「・・・・・・?」
窓から下を眺めていると、玄関先に傘が見えた。どうやら客人らしい。
雨の帳で鈍るような色合いとなっているが、それだけではなく華やいだ風ではない。この点において、雨の中の客人は性別が男であると知れた。
階下から母の声が響いてくる。会話の内容までは聞こえないけれど、幾分楽しそうだ。望まぬ客人ではないという事だろう。
トントントン、と階段を昇る音。母の足音と・・・続く音。もしや、と思い扉を引くと、微笑みを湛えた母の背後にあるのは、既知の存在である整って綺麗な顔立ちの男が一人。無機質な部屋を瞬時に輝かせる、華やかな存在。
「―――跡部」
「よぉ。挨拶に寄っただけなんだが、な」
くいと肩を竦める様は、母に押し切られたのだと教えてくれる。跡部は何らかの通りがけにここに寄ったのだろう。そのまま挨拶だけを済ませて帰るつもりだったところで母に捕獲されたという事か。
ぽつぽつと滴る雨の音は、外だけではない。金茶の髪は水を吸って重く、肩にかけたタオルに水滴を垂らしていた。薄い白のシャツは肌の色を透けさせ、仕立ての良いだろうスラックスも雨水のせいで変色している。寒いのではないだろうか、と観察を続けるなかで思った。
「国光、何か着替えを貸してあげてね」
「はい」
「いや、俺は・・・・」
「駄目よ。風邪でも引いたら大変ですもの。お風呂に入って温まる?」
「―――着替えだけで結構です」
「そう。ちゃんと濡れた髪をよく拭いてね。何か暖かいものを用意するわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
母の押しに弱いのは手塚だけではないようだった。
聞けば、肉親の情に薄い関係に囲まれてきた跡部は、こうして他人をも包み込むような母の存在に戸惑いを感じつつも、逆らえぬものがあるらしい。跡部が手塚宅を訪問する理由の半分は、母である彩菜の存在にあった。もう半分は自分にあると、一応思っておきたい。
「サイズは問題ないな」
「ああ。すまねぇ」
「気にするな。立場が違えばお互い様だ」
箪笥の中から着替えを一揃え出し、跡部に渡す。濡れた衣服を脱ぐ手から、それを受け取り椅子へとかけた。恐らく、母が来れば乾かす為に持ち帰るだろう。今日の跡部の滞在時間はそれまで、というところだ。
「忌々しい雨だな」
「あん?」
「それだけ濡れるとそう思わないか?」
「――別に。雨は嫌いじゃねぇからな」
「そうか。俺は晴れた空の方が良いが」
すっと見据える先には、手塚が焦がれる空の色があった。この澄んだ蒼が、何より好ましく思える手塚である。
「雨には雨の良さがあるだろ。―――手塚」
くいくいと、呼び寄せるように動く跡部の指に招かれ、手塚は一歩その身を近づけた。
何だろうかと思う間もなく、トンと重しが胸のあたりに来る。残り半歩の距離を寄せた跡部が、その頭を手塚の胸の上からもたれかかったせいだ。
「・・・・・・・どうした?」
「ふ。悪か、ねぇな。落ち着く」
「・・・・・・・・・・」
問いかけに答えはなく、はぐらかすかのような跡部の言葉。ただ、その白い顔に浮かんだ表情は穏やかで、作為めいたものはどこにもなかった。押し付けた耳に伝わるは、手塚の・・・・・・・鼓動。
引き剥がす事もなく、抱き竦める事もなく、手塚は跡部のしたいようにさせる。心情的には、どちらかといえば後者を選びたくあったけれど。
長く感じたけれども、それはほんの数十秒の事であったのだろう。再び階段を上がってくる母の気配を感じた頃には、跡部は手塚から身を離し、窓辺に腰掛けていた。
雨を伝わせる窓ガラスに身を預け、穏やかな微笑みのような表情を浮かべる跡部。その耳に届く音は、手塚の鼓動の音と類似した、雨の音。
物分り良く生きていくという事が、然程難しい事だとは思っていなかった。
元々、我侭な質ではなく、欲しいというもの、得たいというものもそう多くない。
けれども、納得できない事にあたった際、自分がどれほど頑固であったのか知る事となる。
サーサーと降りしきる雨の中、傘を片手に帰路に着く。
傘を持つ手は利き腕ではなく右手であって、ほぼ完治している状態であるのに庇ってしまう。
上級生との対戦で、手塚は左手を痛めた。何より大切な筈のラケットでもって、誰もが大事にする筈の利き手を攻撃されたのだ。
瞬間、肘を襲った痛みよりも何よりも、青春学園テニス部という場所に嫌悪と絶望を抱いた。
こんな所で自分は何をするのか。ラケットが振り下ろされる一瞬の中で手塚は見切りをつけた。
喧嘩両成敗という事で、後に現れた部長は手塚にも罰則のランニングを命じた。
納得がいかない。被害者である自分が、何故加害者である彼等と同じ扱いであるのか。
恥ずべき行為をした彼等と何故同等であるのか。
理解できなかった。
治療の為という名目があったので、部の方は休部扱いにして貰った。
大石は毎日心配そうに手塚の様子を見に来る。上級生達は変わらず部に出ているらしい。
部長は、肘を使わずと練習には出れないか?と尋ねてきたが、治療に専念したいと伝えれば引き下がった。
部内で起こった小さな事件。上級生による下級生への乱闘事件は、内々の内に処理されて公にはならなかった。
手塚としても、大事にするつもりはないという気持ちはあった。自分達のみならず、部全体、学校全体を巻き込む事になりかねないからだ。
怪我はいずれ治る。残るのはひっかかりだけだと思っていた。
もう少し状況を見て、問題なければテニスをやっても構わない、と医師が言う。それはのみならず、あの部へ戻るという事を意味していた。
テニスは部活動でなくともできる。場所をこだわる必要はないのだ。
手塚には、何事も無かったように過ごせるかと問われれば、否としか言えない。
思い胸の内を抱えたままに、雨の中を歩く。
雨に覆われた世界。自分がたった一人であることが、余計に感じられた。
「・・・・・・?」
雨の中で揺れる人影。手塚とそう変わらぬ小柄なその人物は、どこか楽し気に何かの曲をハミングしていた。
歌っているのか。踊っているのか。傘もささず、この振りしきる雨の中で。
「――何をしているんだ?」
「あーん?俺様の勝手だろ」
「確かに勝手だが」
振り向いた瞳の中にはしっかりとした知性の光があり、その浮かれたような様子とのギャップに手塚は内心首を傾げた。こいつはおかしいわけではない、と、意思の強そうな視線から判断できる。
「そっちこそ、どろどろ抱えこんでんじゃねぇ?」
「―――それこそ、俺の勝手だな」
「は。確かに勝手だ。抱え込んで、溜め込んで、自家中毒起こした所で俺様には関係ねぇな」
「・・・・・・・・・・・」
くっくと楽しげに笑う少年は、全身川にでもはまったが如く濡れ鼠であるというのに、全くみすぼらしさもなく毅然とした存在だった。その身から、内面から放たれる光が、ひどく眩しい。
「雨は汚れを洗い落としてくれるんだぜ?てめーも、その凝り固まったどろどろを、さっぱり流しちゃどうだ?」
「・・・・・・・・・・・・」
すれ違いざまに、少年は手塚の肘を軽く叩いた。わかっていたわけではないだろう。わかる筈もない。包帯をしていたわけではないのだ。
少年の姿はもうどこにもない。まるで幻であったが如く、消えていた。けれども、じわりとシャツから滲む雨水は、夢でも何でもない。
「――――――」
傘を捨てる。
全身に雨を浴びるようにして歩く。
肌を伝う冷たい雨が、とても気持ちが良い。
明日は部に顔を出そう。そんな風に思えた。
最後の雨の記憶といえば、あのコート外においてすれ違った時のような気がする。
互いにその背に背負っていたのは、青学の名と氷帝の名。
どちらも引くわけにも、負けるわけにもいかなかった。
「―――雨に助けられたな」
その一言に言い返せる言葉は持たなかった。
経験の差。それはすなわち実力差である。けれども、自らが一歩引いていた事も間違いない事だった。
手塚は氷帝2年の樺地と対戦した。
跡部は青学1年の越前と対戦した。
勝ちを収めたのはどちらも青春学園。氷帝学園を2度破った事となる。
あの雨の中、手塚と対峙したのが跡部であったならば、手塚にとってそれはひとつの喜びでもあっただろう。
青学の柱として、落とすわけにはいかない一戦。確実に勝ちを取れると踏んでのオーダー。跡部がそれを読んでいたとしても意外には思わない。むしろ、予測していたに違いないと思っている。そこで、跡部がシングルス2を選んでいたら、手塚との戦いをそれほど執着していたという意味になる。けれども跡部は自らの立ち位置を変える事なく、シングルス1をもって越前と対戦した。
朝から降りしきる雨は、幾分弱くなってきたようだ。この分なら昼前には雨が上がるだろうと、手塚はふんでいる。
室内に居るのは手塚のみではなく、客人が一名。まるで己が自室の如くくつろいでいる金色の猫。
手塚のベッドに寝そべったまま、書物に集中している様は一体何をしに来たのやら、という所である。
けれどもこんな風に過ごす時間も、そう悪いものではないと思っていた。
穏やかに流れていく時間の中で、苛烈な魂を抑えた跡部は今この時を休息と見ているのだろう。
いずれ、再び二人の間は青春学園と氷帝学園の名が立ち塞がってくる。
だけど今このひと時は――ただの手塚と、ただの跡部でいられるのだ。
窓を叩く雨の音は消えている。ガラス戸を引き開け放つと、湿気を含んだひんやりとした空気が室内に流れこむ。
空は遠方の方より明るい兆しを見せている。雨雲が見る間に流れていき、太陽が少しずつ姿を現していた。
「この雨が止んだら一緒にでかけようか」
「――――ア?」
「嫌か?」
「・・・・・・・・付き合ってやってもいいぜ」
窓を背に問う手塚に跡部は胡乱気な視線を向け、ついでふっと口元を緩めた。どこか、皮肉気な笑みであったけれど。
天邪鬼な跡部は、手塚の誘いにすぐに応とは答えない。何かしら、難癖をつけてくるのが常だ。だが、この時は僅かな間をおきながらも、肯定の言葉を紡いだ。そろそろ書物に飽いていたという事なのだろうか。太陽が恋しくなったのだろうか。どちらとも判断はつかない。
「そうか。では付き合ってくれ」
「行き先は?」
「決めていない」
「・・・・・・・ま、たまにはいいだろうよ」
ただ外に出たかった。それを告げると跡部は滅多にない面白い物でも見たかのように、笑った。軽い笑い声は開かれた窓の外に広がる青い空に吸い込まれていくかのようだった。
「――ち、降ってきやがったな」
「・・・・・・・・・・・・・・」
跡部の言葉を確認するまでもなく、足元の水面にぽつと波紋が広がった。
程なくして、川を波立たせる勢いで雨が空から叩きつけてくる。二人、避難所を求めて走りだすも、今更慌てても無駄だと互いにわかっていた。
「諦めて釣り続けっか?」
「肩を冷やして良い身ではないだろう」
「違いねぇ。ま、鉄砲水でも食らったらやべぇしな」
「油断は禁物だ」
「てめーといる限り、それはねぇ気がするな」
「褒め言葉としてとっておこう」
「ああ、そうしな」
「・・・・・・・・・・・・・」
手塚の固い物言いに、青春学園の友人達なら苦笑を浮かべるか理解不能といった表情で固まるのだろうが、跡部の場合はそのどれでもなくさらりと返してくる。氷帝内も厄介な奴が多いから、大概鍛えられてんだよ、というのが跡部の弁であるが、その最たるというか筆頭たるものは跡部に違いないと手塚は確信している。
ライバルから友人へ。ただの友人から気の置けぬ友人へ。それから更に上へは現在進行中。跡部とはそんな仲である。
正反対の気質と、寄れば触れば衝突(特に跡部の方から手塚に喧嘩をふっかける形で)と周囲には思われているだろうが、よくよく話をしてみれば跡部は手塚にとって誰より気の合う人物だった。テニスは勿論、読書、釣りの範囲といった趣味の範囲まで似通った傾向を好む。派手な言動やパフォーマンスに騙されがちだが、跡部は手塚に負けぬ程に生真面目な質である事も知った。言葉を交わしていくたびに、奥が深い奴だと知るようになる。
予定のない連休がたまたま二人重なって、共に釣りでもいくかという話となり、現在の状況。予報では晴れであったのだから多少の恨み言は言いたくはなるものの、天候ばかりは仕方のないと諦められる程度には、二人と分別があった。
木が生い茂り、何とか雨を凌げる場所まで避難した手塚と跡部はようやくほっと息をついた。山小屋までは多少の距離があり、そこに辿りつくまでの気力を雨の勢いが殺いでくれる。最もしばらく様子を見て治まる気配がないようならば、強行軍でそこを目指さなければならないのだけれど。
「大分濡れたな」
「おかげさんでな」
「脱いだ服を枝のあたりにかけておこう」
「乾かねぇよ」
「それでも濡れた衣服は体に悪いだろう」
「ま、そういう事にしておいてやるよ」
相変わらず素直ではない跡部は、一言文句を言いながらも手塚に習って上着を脱いだ。
「火でも炊くか?」
「山火事起こす気かよ。原始的方法があんだろ」
「お前がかまわないのならばそれで良いが」
「ばぁか。人に下駄預けんじゃねぇよ」
悪態をつきながらも、跡部はぴとと身を寄せてきた。ひんやりとした肌と肌が触れ合い、直に温もりをわけあうようになっていく。
冷えた体に互いの体温が少しずつ染みていった。
「――――っ・・・・」
「どうした?」
「・・・・・・・・いや。俺もどこぞの浪漫派似非眼鏡を笑ぇねな、と思ってな」
「忍足の事か?」
「・・・・・・・ろくでもねぇ、影響受けちまったみてーだな。『君と2人なら雨に濡れるのも悪くない』。何だってーんだか、このフレーズはよ。どこの恋愛オタクだって所じゃねぇ?」
「・・・・・・・・・・・」
くっくと堪え切れぬらしい笑いを跡部はもらしている。どうやら自分も忍足に汚染しているらしい・・・・と、口に出せぬのが手塚の不器用さ加減なのだろう。
隠し事の全てを曝け出したわけではないけれど、ひとつの隠し事は二人の間で秘密でなくなった。
跡部が手塚に隠し、密やかに行っていた儀式。正しく眠りから目覚める事のできなかった人々。
それは多数とは言えないけれど、それが救いにはならないだけの数はあった。未だ調査しきれていない範囲の中に、どれだけその不幸に見舞われた人が居るかはまだわからない。
人の死になど、関わりを持つ事のなかった過去の自分達。今この場においては、それは呆れる程に身近なものだった。
眠る人々のカプセルを眺め、ある意味ではこれも静かなる死であると感じ入る事もあった。
『外』の世界においては、ヒトはもっと簡易に死んでいった。
争いが日常的なものであり、大量破壊兵器こそ無いものの、日々どこかで戦闘が繰り返されているらしく、ヒトは安易に死んでいく。跡部がぽつりと「・・・・一時的に休戦協定が結ばれた筈だったんだがな・・・・」と、どこか寂しそうに吐いた言葉が胸に染みた。
自分達のように、遺伝子保管庫とされた人々が居るのはここだけではないらしい。東方の方では大きな戦争があり、多数の人命が失われたらしい。その人的補給源として、スリーパー達が大量に目覚めたらしい、とどこか遠い世界の出来事のように跡部が言った。
「まぁこれで、証明されたって事なんだがよ」
「何をだ?」
「・・・・人が減りゃ、水増しされるって事だ」
「・・・・・・・・・・・」
「起こしたかったら、戦争でも引き起こしゃいいって事だ。バンバン人死にが出りゃ、あいつらぞろぞろ起き上がってくるぜ。少なくとも、そっちの制御の方が安全な目覚めなんだろうな」
「―――跡部」
「んだよ」
「わざと露悪的になる必要はない。跡部がそんな事を望んでいないのはわかっている」
「は。何が『わかっている』、だよ。てめーが俺様の何をわかってるって?言ってくれるじゃねぇのよ」
くくと笑う跡部の顔は、剣呑さと嘲りを含んだものであるというのに、泣き出しそうにも見える。
「跡部、雨だ」
「・・・・・・降ってきたな」
言葉をはぐらかす為ではなく、ぽつぽつときた雨をただ知らせる。そういえばよく気の利かない奴だと言われた。
「すぐに止むだろ。本降りになりそうにゃ、ねぇな」
叩きつけるような雨ではなく、僅かに湿り気を落とすだけで止みそうだと知れる微量の雨。確かこういうものは――涙雨と言っただろうか、と古典の書の内容を思い浮かべた。
「俺達の代わりに空が泣いているのか」
「・・・・・誰の受け売りだよ。てめーらしくもねぇ」
仰ぐように空を見上げ、その白い顔に雨を受け止めていた跡部が、手塚の言葉にゆっくりと振り向く。
お前、馬鹿だな、とばかりに笑みをかたどり緩んだ頬の上を、優しく降り注いだ雨の粒が静かに伝った。