青学との試合が雨で流れた、跡部ら氷帝メンバー達は早々に会場を後にした。
臨戦体制であった体は熱を持て余している。明日に備え、身体を休めるべきなのだろうが、決戦寸前で塞き止められた宍戸・鳳ペアを含め、大人しく過ごしそうにないのが彼等であった。現地解散という事であっても、家路を目指すわけではなく、自然と学園の方へと向いていた彼等の足を止める者が居た。
今更傘など不要とばかりに全身濡れそぼらせ、肩をそびやかせて歩いていた彼らの背にかかったのは、不似合いな程に華やいだ声。
「跡部様〜オイラ、あったかいもの作ってきただ!」
「――――」
息弾ませて、我らが氷の帝王跡部景吾の前に飛び出してきたのは・・・・北の暴走どさんこ娘。長めの黒髪はぐっしょりと水を吸い重そうだ。
しかしそれより何よりどれよりも・・・・彼女の手に持たれている代物こそが重そうではある。いや、その存在そのものも充分重いかもしれないが。
「あの娘、まだ帰っとらんかったんか」
「あれだろ?北海道産の偵察隊」
「それ(偵察の為)ばかりじゃなかったんですね!さすがは跡部部長!」
感嘆の声をあげる鳳にダブルスの相棒たる宍戸が小さな声で「違うだろ」と突っ込みを入れる。まぁ、跡部がもてるのは今更で驚くまでもない事なのだが。
「しかし、何故鍋ごとなのでしょう・・・・」
「雨に濡れて寒いだろーと思ったんじゃないの〜?」
ジローの言葉にそういう問題か?!と声を張り上げたくもなる氷帝の面々。が、まぁここはやはり部長様の反応を見てから判断と対策を・・・・と、跡部から数歩距離を取った背後で一応大人しく様子を伺っていたりする。そしてそんな中でもどさんこ娘の暴走は止まらないのだった。
「オイラ、
最っ高に美味しいカレー、作ってきただ!」
かぱりと鍋の蓋を開けると、ぷんと刺激あるカレー臭があたりに漂う。
「カレーですかぁ。よほどの料理音痴でなければ外しませんよね!」
「っーか、雨入ってるし」
「だよなー冷めちまうよなー」
「や、そない問題やないやろ・・・・?」
呑気な3人に思わず忍足が突っ込みを入れる。ボケが身上の忍足としては不本意な事であった。
「ふーん。
珍しく忍足がまっとうな事言ってるね」
「だからこんな雨降ってるC〜」
「―――そらないやろ」
仲間達の冷たい仕打ちにさめざめと泣く忍足の涙は雨に紛れて流れていくのであった・・・・・・とそもそも嘘泣きだが。
そんなショートコントな彼等を他所に、恋する乙女(?)が衝撃のあまり悲鳴を上げていた。
「あぁっ!オイラ、オイラ・・・・大変な事しでかしちまっただ!」
「―――――」
「ご飯、炊き忘れただーっ!」
ペタンと地に座り込み、さめざめと泣くどさんこ娘。それでもその手はしっかり鍋を抱えていた。
「やばいで」
跡部の背がふるふると震えたのを見て取った忍足は慌てて駆け出す。跡部の機嫌の急降下を見てとった為だ。
いくら相手が相手とはいえ・・・・鍋を頭からぶちまけるような事態になったら大問題だ。まだ冷め切らぬカレーを被り、火傷にでもなったら立派な傷害事件になってしまう。
「―――跡部っ!あか―――」――ん、と叫び損ねた忍足の動きがぴたと止まる。跡部の盛大なる笑い声によって。
「
はっ!!はー―っはっはっはっ!!!笑い死にしそうだぜ。なぁ樺地?」
「――ウス」
凶悪なまでの高笑いをあげる跡部に、いついかなる時にも付き従っている樺地が相槌を打つ。・・・・ああ、またフォローせな・・・・、傷害事件は回避したがあの娘は泣きだすやろな・・・・との忍足の気配りは、実は無駄というか無用の長物であったりした。
何故なら跡部の高笑いの洗礼を真正面から浴びせられたどさんこ娘は・・・・ぽうと頬染め、見蕩れていたりなぞしたのだ。
「・・・・・・跡部様の微笑み、やっぱり綺麗だ。富良野に咲く満開のラベンダー畑より崇高で荘厳だべ〜」
富良野ってどこだよ、と思わず心中突っ込み入れるは氷帝面々。某ドラマにてその名を売ったかの地は、北海道人ならともかく、はたまた父母の世代ならともかく、ホームドラマの類いなどまず見ない彼らにとっては知るよしもない。
「は、やるじゃねぇのよ、どさんこぉ!」
「もしかして跡部、機嫌いーんじゃね?」
「実は好みだとかな」
「え〜多分違うC〜んん〜?半分、ちょこっと正解、かな〜?」
「どっちやねん」
「ああ、そういう事ね」
「滝先輩はわかるんですか?」
「ん?前の時はさ、作為気たっぷりだったろ?跡部が相手をするわけないよね。でも今回のあれを見るに、あの子かなり天然みたいだ」
「―――そういう事ですか」
滝の言いぶりは曖昧に濁していたが、日吉も言わんとする事はわかったようだ。いや、日吉に限らずほぼ全員がそれで事態を把握した。
「天然系好きやしな〜」
「手塚とかそうだよなっ」
「あ〜だから機嫌いーのかよ。ダッセ」
「いいじゃないですか宍戸さん」
「そう他人事にでもないよ〜」
「ジロー、どういうだよ?」
「ほら跡部、受け取るみたいだC〜誰が食べるのかな〜?」
むにゃむにゃと、半分眠りに入ったジローの発言。だが、恐らくこの場で一番跡部の事を理解しているであろうジローの言葉。ただの寝言と取れるわけがない。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「ち、ちょぉ待ちっ!あ、跡部っ!!気持ちだけにしとき!」
焦る忍足の手の先で、樺地が寿葉からカレーを鍋ごと受け取っていた。
そして。
翌日に試合を控えた者は当然安全性を重視したわけなのだが―――――すでに試合を終えた数名に関してはそう逃げを打つわけにもいかず、北海道産特製カレー(安全性・材料の吟味方法は青学の乾某のチャレンジ系ドリンクと比肩するものと思われる)、彼等の胃に収められる事となったのであった。
「最高に美味そうなカレーを作ったのに、ごはんを炊き忘れた。」
練習試合の打ち合わせで青学を訪れた跡部は話がつくと早々に引き上げた。
下手にウロウロしていると、青学テニス部部員に取っ捕まり、帰るに帰れない状況となるからだ。
ライバル校の部長を捕まえて遊ぼうも何もないと思うのだが・・・この自由性が青学の特徴でもあるのだろう。人目につかぬよう、裏道をそっと抜けていこうとした所、木の影にひらりと白いスカートが翻る様が見えた。
女子テニス部部員らしき少女は半分泣きそうな顔で何かを探しているようだ。跡部は小さく溜め息をつく。通り縋ってしまったのも何かの縁だと諦めながら。
「おい、そこの」
「え?あ、跡部、さん・・・・?」
「へぇ。俺様を知ってんのか」
「試合会場で、見かけた、事が・・・・」
「青学の応援に来てたってわけね。それで?此処で何をしていたんだ?まさかこんな所まで球が飛ばしたってぇ事はないよな?」
「違います。木を、探していて・・・・」
「木だぁ?そこらに生えてんだろ?」
見回す限りに木はあった。探すまでも無い事だ。しかし、少女はゆっくりと首を振る。否定の意をこめて。
「普通の木じゃないんです。どれだかわからないんですけれどきっと何か違う筈なんです」
「何かってなぁ。目印は?」
「わかりません」
「特徴は?」
「わかりません」
「そりゃ無茶ってもんだろ、おい」
「そうなんですが、探さないといけないんですっ!」
思いつめたような真剣な瞳に、思うのはやはり「仕方ない」という言葉。
「―――付き合ってやるよ」
「え?」
「一人よりゃ、見つかり易いだろ」
「でも」
「んなザマじゃ、陽が暮れも見つかんぬーぜ。練習、戻れなくてもいいのか?」
「そ、それは・・・・・・・・お、お願い、します」
「はいよ」
ぺこりとお辞儀をする少女に跡部は無造作に片手を挙げて応じた。目当ての木を探しながら軽い質問をしていくうちに跡部は少女の名が竜崎桜乃であると知る。
「竜崎ってぇと・・・・」
「はい。おばあちゃんです!」
「なるほどね」
「似てない、でしょう・・・・」
「さてな。ま、あれぐらい、佳い女になる可能性はあるって事だ。せいぜいがんばんな」
「はいっ!」
跡部の言葉に桜乃は元気良く返事を返した。
「ところで何で『木』を探してる?」
「それは、その・・・・」
「話したくねぇなら聞かねぇけど」
「いえ、お話しします。実は、こういうものを貰ったんです。私、こういうの初めてで」
大事そうに抱えていた封書を桜乃は跡部の前に翳した。ぴらりと風に揺らぐ便箋に綴られた文面には―――
『伝説の木の下で待っています』
とあった。
どこだよ。
跡部が咄嗟にそのふざけた内容の手紙を破り捨てたくなったのも無理なき事だろう。
「で?青学に、その伝説の木はあるのか?」
「いいえ。おばあちゃんにも聞いてみたんですけれど、そんなのは知らないって」
「――――」
だろうなとの感情は表には出さず、幼子を宥めすかすような柔らかい笑みを作った。
「――あのな」
「は、はいっ」
「そりゃ、ガセだ。担がれたんだよ」
「え?で、でも」
「ロマンチックな伝説ってのを女は好むよな。だが、人知れず守られてきた秘密とか、代々受け継がれてきたとかいうのはな、実は誰もが知っているんだ。見た所、あんたは一年のようだが、友達におしゃべりな奴、いるか?」
「は、はいっ!はきはきしていて、元気良くって、行動的で・・・・」
「説明しなくても良い。とにかくそのお友達も知らねぇようなら、それこそガセネタの可能性が濃厚って事だ。初めてのラブレターがそれじゃショックかもしれねぇが、あの手の物は気持ちを伝えるばかりじゃねぇ。嫌がらせや悪戯の類いも少なくない」
「跡部さんも、そうなんですか?」
「まぁな。で、百歩譲ってそれが本物のラブレターだとして。なおさら相手にできねぇな」
「どうしてですか?」
「素で伝説のなんて抜かす奴はヤバイ奴に決まっている。関わらねぇ方が良い」
「そ、そうなんですか・・・・・・」
「誰かに相談すりゃ声揃えて言うだろうぜ。今度からはこの手の怪しい手紙は無視しろ。本気の奴なら文面からも伝わってくるってもん だ」
「はい。ありがとうございました!」
ぺこりと綺麗な御辞儀を残し、走り去っていく桜乃を跡部は苦笑を浮かべて見送るのだった。
「ま、たまにはこんな気紛れもありだろうよ」
くすくすと、忍び笑いを洩らしながら、跡部は今度こそ誰にも見つからぬようにと、青春学園内から抜け出した。
初めてラブレターを貰った。[伝説の木の下で待っています]
…どこだ?
そうして俺は途方に暮れる――――正にそう記したくなる状況だった。
ある意味アレは誘拐の一種だ。こちらが望まぬというのに無理矢理車に押し込まれたのだ。
しかも人気の無い所に連れ込んで襲いかかってくるたぁ一体どういう了見だ?アァ?
幾ら親父の取引上の付き合い相手っても、受け入れられる範囲ってぇもんがある。
うまくコトがなっても未成年淫行罪だぜ?大体この俺様が泣き寝入りをするような相手だと思っている方がめでたいってもんだ。
男に生まれてきた事を後悔する羽目には合わせてやったけどな。あれで今後子孫を遺せなくなったとしても、かえって良いんじゃねぇかと思う。ああいう輩は反省ってもんを知らない。手加減無しで数日表を歩けないぐらいにボコボコにのしてはやったが、社会的抹殺の方面でも報復を考えておいた方が良いかもしれねぇ。
ま、それよりも何よりも現状が問題だ。
薄手のシャツは前のボタンが飛んで、前身は肌蹴放題。髪は乱れていかにも乱暴されましたという風体。ポケットを漁れば小銭の擦れる音。薄闇がかった夕暮れ時。携帯無し。
見知らぬ土地、持ち金240円、人通り無し。
・・・迷子です。
さて。どうしたものか。
この年になって、まさか迷子となるような羽目に合うとは思ってもみなかった。
しかしここで頭を抱えていても仕方がねぇ。とにかく前へと進む事が大事だ。駅にさえ辿り着けば、初乗り料金はどうにかなる。後は家へ電話を入れて迎えに来て貰えば良い。そう思い切ると、気分も幾らか浮上してきた。
勘を頼りに人の居そうな方向へと歩き進める。タイミング良く車が脇を抜けようとしたので、咄嗟にその車を引き止めた。
軽いブレーキ音を立て、通り抜けようとした車が停止する。どうやらドライバーは人の良い人物らしい。先に続いてヤバイ奴でない事を祈る。
運転席側の窓がスルスルと下がると同時に後部座席の扉が開いた。同時に柔らかな女性の声で「跡部くん?」と呼びかけられる。聞き覚えのあるその声に、どうやら今日は厄日らしいと思い知った。こんな所で、こんな状況では会いたくない相手だ。まさか、手塚国光の母と出くわすとはな。
「―――どうも」
「どうしたの?こんな所で。・・・・・・その格好は?」
「少々野暮用で」
「・・・・・・乗りなさい」
「え?」
「この辺りの地理には詳しくないのでしょう?それに、そんな格好の跡部君を放ってなんておけないわ」
「―――はい」
有無を言わさぬ口調というか。逆らえぬ雰囲気に頷く。
手塚の母といえば、もっとおっとりした人物だと思っていたのだが・・・・静かに抑え込まれた怒りに言葉を失う。勿論、俺に対して怒っているのではないとはわかっているが。
「失礼、します」
ここは大人しく従っておくが正解というもので、なるべく殊勝な態度で乗り込んだ。運転席に座っていたのは手塚の父で、こちらの方も彩菜さんに習い沈黙を守っている。・・・・・気まずいっつーか何つーか。実際の所は実害は無かったわけで(シャツの一枚程度無駄になった所で被害でも何でもない)、あまり大げさに取られてしまうのも困りものだ。それに――思い出してしまった事がある。手塚の祖父は確か警察に関わりがある人物で・・・・このまま手塚家へと連行されるとなると、騒ぎが大きくなってしまうように思える。この状況を作り出した奴が逮捕されようが何だろうが全く心は痛まないが、自分の名が表に出るのは少々困る。曖昧に済ますつもりはないけれど、自分の裁量で事態を収めるつもりであったので、そこに他者が関わってくると・・しかもこちらを気に病んでくれているのがわかっているのでなおさら・・困りものであるのだ。
「――あの・・・・」
「何かしら?」
「それなりに事情がありますので、内々にお願いしたいのですが」
「―――跡部君」
「それは駄目だよっ!」
「うわっ!前!前見てくださいっ!」
「あ、ご、ごめんね」
「全く、あなたったら」
「申し訳ない」
「・・・・・・この格好で言っても何ですが、被害は特には無いんです。未遂でしたから。家の方で関わりのある相手ですので、容赦するつもりはありませんが、こちらの方で対処します。御心配をかけて申しわけないのですが・・」
「貴方はそんな事を気にしなくて良いのよ」
「そうだよ。全く赦しがたいね。ここはやはりお父さんに力添えして貰って」
「ええ。生まれてきた事を後悔させてあげましょう」
「・・・・・・・・・・・・」
にこやかに笑みを浮かべながら物騒な事をさらりと言い切る手塚母。「いや。何もそこまで・・」と言いかけるが、相手のわけのわからぬ迫力に言葉を呑む。
「―――全く。国光もどうしようがないわね」
「は?何故そこに手塚が・・・・いえ、国光君の名が出てくるのですか?」
関わりない事でしょうに・・と、何故だかいらぬ方向にとばっちりが行きそうな雰囲気に思わず口を挟む。
「大事な人を守れないなんて、甲斐性無しにも程があるわ」
「大事って。その・・・・」
「帰ったらよく反省させないとね。跡部君、きっちり思い知らせてあげていいのよ。私が許すわ」
「そうだね。僕もしっかり叱るつもりだ」
「え?いや、ですから、その・・」
手塚を叱られても、彩菜に許しを得ても何がどうというわけではなくむしろ困るのですが――?と切に訴えたい跡部であったが、どうやら愛息子に教育的指導を授ける気満々の夫婦の熱気に圧され、跡部は深く車のシートに沈む他はなかった。
「・・・・・・・・・・・・」
こんな事なら・・・・ あのまま一人迷子として歩いていた方がマシではなかったかと、思えてしまう。意味もわからず叱られて困惑するであろう手塚の顔を想像し、心の中で手を合わし、途方に暮れる跡部なのだった。
「見知らぬ土地、持ち金240円、人通り無し、…迷子です。」
世にも・・これ程悲壮な顔というものを・・跡部は未だかつて見た事が無かった。
その表情を浮かべているのが、わずかなりとも見知った相手であったので、通りすがるのではなく足を止める。
お世辞にも好意を持たれているとは思っていないが、それでも放置しておくというのは心が痛むというわけではないけれど、小さなひっかかりとして負い目のような気持ちを後々抱くと思えた。
それは跡部を身近に知る者からすれば、ごくごく当たり前の事で――親しい間柄であればある程、皆は声を揃えて言うだろう。
「跡部は面倒見良いから」
本人ばかりが認めようとはしない、しかしながら周知の事実であるその指摘を。
「――――よぉ」
「あ、アンタ・・・・」
瞬間的に浮かんだ警戒心と非歓迎のオーラ。まぁそれも当然だと思いつつも、腹は立たない。初対面の頃からして、印象が良かったとは言えない間柄だからだ。
橘杏。不動峰の主将、橘の妹だ。その事実を知ったのは、少しばかり後であったが、だからと言ってそこで格別心を砕きはしなかっただろう。気の強い女は好きだ。が、目の前の相手はまだ「女」と称せるような年頃ではない。ストテニ場にてデート云々とひっかけたのは本意ではない。あそこで勝ちを取ってもそれを実行する気はなかった。どちらにしても勝つ気も無かったが。
結局の所は暇潰しでしかなかった。その後に連れた青学の2年・・・・桃城の方が跡部の意識に残ったように。が、それを説明してもどうとなるわけではないだろう。むしろ侮辱されたと取り、反感を倍加させるだけであろうから。
「こんな所で何をしている?プチ家出か?ひとつ忠告しとくが、この辺りは変質者が出たという話もある。年頃の女の子が夜に一人で居る場所じゃないぜ?」
「・・・・・・御親切にどうも」
「一応は顔見知りだ。明日の新聞にでも載るようなら、気にも病むからな。さっさと帰った方がいいぜ?杏ちゃん」
「・・・・・・まだ帰りたくないわ」
「それはそっちの自由だがな。帰りたくないにしても、もう少し安全な所へ行ったらどうだ?後は誰かガードしてくれる奴でも一緒に居て貰うんだな。断っとくが、俺はそこまで付き合うつもりはねぇ」
「頼まないわよ。そんな事」
「そりゃどうも。ま、ここらは青学の圏内だ。桃城あたりを呼び出しちゃどうだ?」
「そんな迷惑かけられないわよ。そういうそっちこそ、何でこんな時間にこんな所に居るのよ。氷帝の帝王様自ら夜の偵察って所?」
「誰が、んな暇な真似すっかよ。この先に手塚の家があってな、そこの帰り」
「・・・・・・・・仲良いの?!」
「はっ!冗談。いろいろあんだよ、付き合い上な」
「・・・・・・・そう。お世話様。時間とらせてごめんなさい。もう帰って」
「警戒心の強いこった。おい、本気で身の安全を考えた方が良いぜ?」
「そういう事ならそちらにも返させて貰うわ」
「言ってくれるな。俺はこれでも腕っぷしには自信がある。ま、立場上目立つ喧嘩をするわけにゃいかねーが。――兄貴でも呼べよ。心配してんじゃねぇ?」
「・・・・・・・・・・・・」
兄の事を言った途端、杏の顔が盛大に強張った。仲の良い兄妹(兄が妹を溺愛している)だと聞いていたが・・・・まぁ、仲が良くとも喧嘩ぐらいはするものだ。余程盛大に争いでもしたのだろう。ここまで意固地になっている理由はそんな所だろうかと思えた。
「あいつも頑固そうだしな。折れてやれよ。可愛い妹が謝れば一発で機嫌が直るってもんだぜ?」
「・・・・・・・そんなんじゃないわ」
「怒ってるのはあんただって?」
「・・・・・・・そうじゃない。兄さんは・・・・・・機嫌良すぎるぐらいにいいんだから」
「は?」
ぽつり、とこぼされた言葉に首を傾げる。機嫌が良いならそれはそれにこした事はないだろうに。だが、橘妹――杏の表情は重い。背負う空気も重い。何故にこれ程までに重いのかと疑問を抱く程にじっとりと重苦しい。
「―――兄さん・・・・・・
スキップしてたの」
「・・・・・・・・・・・ア?」
「―――
鼻歌歌いながら、ね。絶好調な感じでよ」
「あの橘が?スキップ?鼻歌?絶好調?冗談だろ」
何の冗談だ?幾らなんでもかましすぎだろう、と話半分どころか小指の先な心持ちで聞き返した跡部であるのだが、杏は全くの生真面目本気冗談抜きの表情で、それこそ悲劇のヒロインさながらの沈痛な面持ちで、首を振る。
「冗談じゃないわ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
夜の公園を重々しい沈黙が支配する。
曇りない晴れた夜空の月明かりは眩しい程で、公園内は中々趣きのある光景だったというのに・・・・杏の言葉により、その雰囲気は台無しとなる。跡部は杏に声をかけた事を心の底から後悔していた。
「――――――世も末だな」
「・・・・・・・・・・・・悪夢だわ」
駆け落ちカップルばりの重苦しくも不幸を背負った雰囲気で、跡部と杏の二人は夜の公園の中、キィキィとブランコを揺らすのだった。
「絶好調に歌いながらスキップしている兄を見つけた」
「――――ミスった・・・・」
己の有様を省みた跡部からは、自信に満ち溢れた常なる態度が鳴りを潜めている。
ごくごく珍しい事に、多少ではあるが落ち込みの態を現していた。
跡部がその身に纏っているのは、本来彼が身につけるべくない物である。
今居る場には相応しいながら、跡部がとなると相応しくない。似合う似合わないの問題ではない。そのような面から言えば、似合っている。元々涼やかな風貌であるので、濃い青の色生地は跡部の白い肌によく映えた。
が、彼は言うなれば氷の帝王。氷帝学園を代表する男だ。その身に合うのは何よりも、冴えたる色合いの氷帝学園のジャージこそである。
SEIGAKUの文字を背負う姿には、大抵の者が何とも言えぬ違和感を感じる事だろう。
他校のユニフォーム・・・・しかもレギュラージャージ。それは違法的に入手したわけではなく合法的に借り受けた物だ。氷帝学園の代表として青春学園を訪れた跡部が不幸な事故で制服に水を被ってしまい、それが乾く間での間という事で、それなりに見知った関係である青春学園テニス部部長の手塚国光が跡部に自分のジャージを貸し出してくれたのだ。
身長的にも手塚の方がほんの4センチ程高いだけで、体格的にも似通っている為、否と応じる理由もない。学ランの方を貸そうかとも言われたが、青学のジャージを着込む等そうそうあるでもない機会という事で、興味の態を示した跡部に手塚は苦笑を浮かべながら自らのジャージを跡部に貸したのだった。そのレアものの姿を見て、カメラが趣味である不二などは、「高い値が付き添うだね・・」などとひっそり呟きもしたが、賢明なる周囲は敢えてその発言を追求はしなかった。
そういうわけで今の状況である。
何も問題が無ければ、「ありがとよ」とジャージを返すだけで済んだのだが・・・・生憎とこういう時に限りトラブル続きとなるもので、跡部は途方に暮れていた。青学に対する手塚の想いというものは軽い物ではなく、それはユニフォームに対しても同様だろう。レギュラーの証たるレギュラージャージには、三年間の様々な想いが込められているに違いない。
そんな、思い出深き品であろう手塚のレギュラージャージ。それは正しい姿を留めてはいない。見事なまでに盛大に威勢良く、袖のあたりが破れて切れてしまっている。
これは―――怒るだろう。いや、普通は怒る。例え理由が正当なものであろうとなかろうと、不快感を抱いて当然の事だ。
それ故、跡部は困っている。他の誰だとしてもこれほど気にはしなかっただろう。相手が手塚国光であるからこそ、跡部の心が多少なりともな罪悪感に類する物を感じているのだ。
「くそ・・・・」
優秀なる頭脳もこのときばかりはすぐには解決案を引き出す事ができなかった。千切れた袖を前に頭を抱える跡部景吾。見る者が見れば目を疑うか、または微笑ましく感じたかもしれない。
そんな跡部の様子を眺めていたとある人物が居た。
「おやおや。人に借りた物は大事にしなさいと、お袋さんに教わらなかったのかい?」
「――――竜崎、先生・・・・」
からかうような声に振り向いた跡部は、いつになく困った表情を浮かべる。これが青学の生徒相手であったなら、喧嘩ごしにも返したかもしれないが、基本的に目上の人物には礼節を崩さない跡部であって、ましてや認めた相手に対しては尊敬すら抱き尊ぶのだ。
「いやだね、冗談だよ。お前さんの育ちの良さは見てればわかるし、その袖だって故意じゃないのも知っている。だがね、理由はどうあれ、そいつぁ手塚にとっても特別な品なんだよ」
「―――理解って、います」
安易に借りるのではなかったとの後悔の念を滲ます跡部に、竜崎スミレは苦笑を浮かべた。天敵ともされるライバル校の生徒で、さらにはその総代のような存在であっても竜崎にとtっては可愛い生徒の一人である。それは自校・他校などという枠組みは関係の無い事であった。
「まぁ、お前さんがそんな事を考えるとは思っていないが、買い換えれば良いってものでもない」
「当たり前です。新品を用意すれば良いなどと、そんな事は思っていませんよ」
「ふふ。いい答えだ」
「すっかり子供扱いですね。こんな有様では、反論も何もできませんが」
遊ばれていませんか?と問うような跡部の目に、竜崎は含むような笑い声を立てる。それは肯定に他ならなかった。
「―――竜崎先生・・・・」
「ははは。悪いね。お前さんのそんな悄然とした可愛らしい姿が見られるとは、長生きはするものだと思ったら、ついね」
「からかわないで下さい」
「謝るよ。それで、どうするか決めたのかい?」
「ええ。まぁ」
揺れる瞳から迷いが消えたのを見て取った竜崎の問いに、跡部はしっかりと頷いた。
「正直に話しますよ。原因も、全て・・・・何もかも。自分の擁護はしません。事実だけを話し、その上で謝罪します。その前に針と糸をお貸し頂ければと思うのですが・・・・」
「縫うのかい?」
「修復するにはそれしかないでしょう?」
「手塚に負けず劣らずの生真面目さだ。ま、非がお前さんにあるとは、誰も思わないとは思うがね」
「それでも・・・・借り受けた以上、それを損壊させた責任は自分にあります。最低限の誠意だと、思うのですが」
「――――いいね」
「は?」
「お前さんを、うち(青学)に欲しかったと、思うよ」
「・・・・・・・・大変有り難いお言葉ですが・・・・青学はあのメンバーだからこそ、最良で、最高なのだと思います」
「氷帝がそうであるように?」
「はい」
「そうか。そうだね」
きっぱりと頷く跡部に、竜崎は心底楽し気に笑い声を立てた。
この後。借りたジャージの袖を縫いつけた跡部は、それを持って手塚の元へと謝罪に向かった。
その際の手塚はと言えば・・・・・・。
一瞬の衝撃こそ見せたものの、跡部に対して怒りを発する事はなかった。それは感情制御に長けた手塚であるからというわけではない。
「友人に借りた服を威勢良く破ってしまった。」