関東大会の終わった翌日。
朝の目覚めは予想に反して心地良かった。
体の節々に回る疲労感。こもった熱。それらは確かに残っていた。本来ならばそれがそのまま次の試合へのテンションへと繋がる筈だった。
けれども、もう試合はない。跡部が戦うべき場は存在しない。
なればこそ、今あるのは燃焼しそこなった充足感か。
手塚国光との試合は、互いの死力を尽くした。余力を残すような、そんな半端な試合のできる状況ではなかった。
存分に戦い、かつてない強敵を下し、けれどもこの手に残ったものは敗退という二文字のみ。
「はっ!敗けを知らねぇわけじゃねぇ」
ばっとシーツを引き剥がし、ベッドから起き上がるが、視線の先にあるラケットが目に入り気分爽快とは言い難い。
「勝ちの上で敗け。個人で勝ち、部長として負けたってか?冗談じゃねぇな」
握り締めたラケットからは鮮烈な記憶が蘇る。
終わり無きタイブレーク。
歓声と悲鳴。
嬌声と狂乱。
ヒートアップする応援合戦。
崩れ落ちる手塚。
取り残された跡部。
そして、ゲーム再開。
最高の力を込めた、最上の試合だった。
この先、あれを超す試合に巡り合う事はないのではなかろうか。
体細胞の隅々にまで焼きついた熱き試合。
だが、満足感はやはりない。
満ち足りる事はない。
「――――試合がねぇ」
今日の跡部に戦う場はない。
明日の跡部に戦う場はない。
だから。
今日は不幸せである。
そして、
――――多分、明日も不幸せ。
Consolation
事実上の敗者復活戦。
5位枠という残されたカードを掴み取る為に、跡部ら氷帝学園は対ルドルフ戦へと挑む。
「んふ、ふ。氷帝学園。望む所ですね」
「だけど観月さん、氷帝は強敵ですよ」
「強い敵を下してこそ、僕達の力を表する事ができるというものですよ。自信がありませんか?裕太くん」
「そんな事はありませんっ!今度は勝ちますっ!」
「そうですね。君には期待しているのですから、頑張って下さいね‥‥ふふ‥‥」
氷帝の名が聞こえた事で、跡部の足が止まる。どうやら会話の主は5位決定戦の対戦相手となるルドルフの生徒らしい。
「―――――」
確か、情報戦を主とするテニスがチームカラーであったと把握していた。
聖ルドルフ学院の部長は赤澤だ。だが、実質的な実権を握っているのは観月はじめ。頭脳的な司令塔を軸に、対戦相手に応じた試合運びをして勝利を得る。
相手によっては酷くやり辛く感じるだろう。
跡部は会話を盗み聞くような形になったが、それを恥とは思わなかった。情報戦は、こういったこぼれ話を拾う事からも始まっている。中には犯罪紛いの盗聴行為すらやってのける学校もあるようだ。まぁ偵察上のビデオ撮影とてある意味盗撮なのだから、どちがが罪深いなどと言い切れるものでもないが。
「確かに氷帝は強敵の上、難敵です。ですが彼らには突くべき隙が結構あるんですよ。ふふふ・・」
「さすがは観月さんっ!」
「ふふふ・・・・褒めても何も出ませんよ、裕太君。――氷帝は、都大会のおいてはベストメンバーを投入しない。それはコンソレーションに回った所で覆されないでしょう。そして彼らは負けた者を即レギュラー落ちさせる。つまりは不動峰戦において破れた宍戸は出てこないという事です。ダブルスひとつ。うまくすればもうひとつ。そして裕太君、君が居ます。ダブルスひとつを落としてもこの僕が何とかします。跡部まで廻さない。不動峰の戦略に乗らせて頂くとしましょうか・・・・ふふ・・」
策略的な会話を聞くに、やはりルドルフを動かしているのは観月であると跡部は確信する。
彼らの声が遠ざかり、その姿も消えてしまうまで、跡部は自らの気配を殺し動こうとはしなかった。
「―――観月、ね。いい着眼点してんじゃねぇのよ」
にやっと不敵に笑う跡部からは、氷帝学園恐るるに足らず、と言い切られたも同然の観月ともう一人の会話に腹を立てた風もなかった。当人達には決して見せぬが、身内を大事にする跡部にしては随分と寛大だ。
「オーダー表は、変えないでおいてやるよ」
ぴらり、と跡部の手の中で一枚の紙が踊る。その用紙には対ルドルフ戦におけるオーダーの草案が書き込まれていた。監督である榊に電話を入れた時点で、跡部の頭の中にはすでに形となっていた。データテニスの聖ルドルフ学院。その力量を跡部はすでに把握している。青学との試合を見ているからだ。
「‥‥・・・・悪くは、ない。だが、まだまだ甘ぇな」
跡部には、ルドルフが――観月が施す対氷帝戦の戦略が見えている。
「本当、悪かぁねぇんだけどよ・・・・・・・・・・相手が悪かったな」
くっくと含み笑いを洩らす跡部の姿をもし先程の観月が見ていたとしたら、その挑戦的な嘲笑とも取れる笑みに、激昂したであろう事は間違いなさそうだった。
そして、数日の時を経て―――聖ルドルフ学院中 対 氷帝学園中等部による5位決定戦が行われた。
ベンチにおいて、互いの司令塔はそれぞれ余裕の笑みを崩さぬままに試合展開を見つめていた。あくまで余裕の態度で――いや、観月の方は己の予測がばっちり嵌った事に対して優越感すら抱いていただろう。その不敵な笑みに強張りが現れたのは、彼が最も買っているであろう不二裕太が敗れた時だった。
その時点でルドルフはダブルス戦ひとつを落としていた。そしてシングルス戦をひとつ。観月は自分の勝ちを確信していたが、それでも2−2となる。そして最後に控えるは、跡部である。どう考えても勝ち星を取れるとは思えない。この時点でルドルフの敗退が決定したも同じであった。
だが、その観月の考えは少し外れる。S1で登録されているものと思われた跡部が、観月の対戦相手として対面コートに現れたのだ。
これで勝ち残る確率が上がった――とは観月にも思えない。自ら集めたデータをどうさらっても、いかなる粗を探そうとしても―――無駄に終わった。跡部景吾という全国区のプレイヤーに対し、観月は自分では格不足である事を思い知る事となる。それは試合結果にも如実に現れた。
終わってみれば圧倒的過ぎる程の完敗。6−0。観月は跡部に1ゲームすら奪わせて貰う事ができなかったのだ。自尊心の果てしなく高い観月にとってはとてつもない屈辱である。
「意外に、歯応えねぇな、ルドルフさんよ」
「・・・・・・・・・・・」
「返事くらいしたらどうだ?いっそ気持ち良い負けっぷりで、すっきりしただろ?」
「―――――僕は、自分が鼻持ちならない奴だとよく言われますけどね、自分以上は初めて見ましたよ‥‥」
「あーん?当たり前だろ?この俺様のレベルまで届くと思う方がおかしいぜ」
「―――――」
「見切り合いは、こっちのが上だっつー事だな。幾らデータが揃っててもな、使いこなせなきゃ意味ねぇよ」
「・・・・・・言って、くれますね」
勝利者の笑みのままばっさりと切り捨てる跡部の言葉に答える観月の声音はその少女めいた外見にそぐわず、地を這うように低いものとなった。
涙が、流れた。
勝った者と
負けた者と
だがどちらも、チームとしては負けた者で。
整列し、勝者と敗者が切り離された時、後輩達は涙を流して泣いていた。
「一生、忘れられない空になりました」
「・・・・・・・・・・」
関東大会の敗退から明けて数日。
今後公式戦への参加が無くなった事で跡部は早々に部の引継ぎを取り進めた。
名目上はまだ跡部が部長という立場にあるが、実権を2年生に引渡し、自らは部より引退という形を取った。
当然の事ながら1年・2年の後輩達はショックを隠せないようだった。
三年生がこの大会を機に引退するという事は暗黙の了解であったというのに、いざその時が来るとまるで青天の霹靂の如く、驚愕を隠さない。
それだけ、跡部という存在が氷帝テニス部に浸透していたという表れだろう。
引き止める声を一喝し、跡部は「次はてめぇらの時代だ」と言い切れば、誰も逆らう事などできなかった。
すでに引き継ぎに絡む資料は大会前にまとめてあったので、跡部は2年生の代表である樺地・鳳・日吉の三人にそれを渡し、不明な点があったらいつでも連絡してこい、とこの時ばかりは少しだけ表情を和らげて、後を託す後輩の肩を叩く。
信頼と激励の行為であったのが、その事がきっかけとなり鳳と日吉の二人が泣き出した。まるであの敗戦の日のように。樺地も涙こそ流さなかったものの、その瞳はどこか悲しげな色を湛えていた。
長居するつもりのなかった跡部なのだが、これが最後と悟った後輩達が何のかんのと理由をつけて引き止めて、結局練習の終わりまで付き合う羽目となった。同年の仲間達はそんな跡部に笑いかけながら、さっさと帰ってくれた。薄情とは思わないが、あとで覚えていろよ、と思ったのは確かだ。
新部長はまだ確定していない。正式な確定は生徒会総選挙同様に9月の中頃となる。それまでは跡部は名目上の部長となる。2年の主力3名。中でも次期部長として考えられているのは日吉と鳳の二人だ。どちらであっても良い部長となるだろう。跡部とは違った意味で。当然だ。同じである必要など、コピーなど必要ない。
この日ばかりは感傷的なものもあり、樺地は先に帰し一人ロッカーの荷物を片付けていると、「今日の鍵当番になりました」と鳳が少し遅れて入ってきた。さほどの荷物は残してはいないが、ただ着替えるだけの鳳よりは時間がかかりそうだったので、最後の鍵閉めをしてやると跡部は親切心から言ったのだが、鳳は曖昧に笑うだけで首を横に振った。
そのまま着替えるでもなく椅子に座っている。強い視線ではないが、自分の背を見つめ続けているのを跡部は感じ取っていた。
「―――甘えてんじゃねぇぞ。俺ぁ、宍戸と違うぜ?」
「宍戸さんだって甘やかしてはくれませんよ」
「そーかよ。しかし、お前その涙脆いところ直せよ。『泣き虫部長』なんざ言われたくねぇだろ?」
「泣いて、いません」
「ほーぉ?」
「・・・・・・今日はいやに空が滲んで・・・・咽返る程に・・・・」
「―――詩人だな。鳳よ」
「この空は、忘れられそうに、ありません」
「ばーか。来年は、笑って見上げんだろ?」
「―――――はい。必ず」
立っていれば届かぬ額をぱしりと叩くと、一瞬痛みに瞳を瞬いた鳳は、跡部の挑戦的な笑みを受けて、大きく頷いた。
「適当に腰かけてろよ」
跡部に促された二人は進められるままに空いている椅子を引いて腰かけた。
「――っかし、何でそいつが来るんだ?」
跡部の疑問は最もである。所は生徒会室。そして手塚は生徒会長。だが、越前リョーマは?
「氷帝に赴くと言ったら同行したがってな」
「んだよ。俺様に会いたかったって?」
「そんなんじゃないんだけど」
「はっ照れるなよ」
「相変わらず跡部はもてるな。男女を問わず」
「――部長まで!」
味方と思っていた人物にまで言われ、リョーマはむっつりとした表情になる。そもそも手塚を相手に味方になると思う方が間違いだ。それこそ、お株を奪うようであるが、「まだまだだな」という所だ。
「跡部〜っ本日の宅配便のお届けや」
「――忍足、てめぇドアは手で開けろと何回言ったら理解するんだ?」
「いややわーお堅い手塚みたいな事言わんといてー―と本人やんか」
「‥・・・・・・」
両手で箱を抱えて室内に入ってきた忍足は先客の顔を見て目を丸くする。しかしながら気まずさを感じるといった殊勝さは微塵も持ち得ていないようだった。
「全国以来?元気そうやん。今日は、あぁ、生徒会絡みかい」
「 そうだ。今年の文化祭は大多数の生徒の希望により合同開催となった。その打ち合わせだ」
「生徒会長自ら氷帝に出向いて不満上がっとらん?」
「否定的な声はでている。だがその本質は『跡部が青学に来ない』事に対しての不満だな」
「同じやろ?」
「いや。―――青学には跡部のファンが多いんだ」
「ーっスね。俺もたまに聞かれますよ。跡部さんの携帯番号とか」
「知っているのか?」
「部長、知らないんスか?」
「教えて貰った覚えはない」
「ぁあ?家にかけてっだろが。彩菜さんは覚えてっぞ。時々かかってくるしな」
「‥‥‥母さん」
跡部の言葉に手塚の肩ががくりと落ちる。確かに母は跡部を気に入っているようだったが‥‥と呟く様は微妙哀し気ですらあった。
「てめぇの携帯にも何度かかけただろうが。履歴登録しろよ」
「次回かかってきたらそうさせて貰う」
「――手塚らしいっちゃらしいのか?」
「――っスね」
「青学も色々大変みたいやな」
「・・・・・・・・・」
生真面目に頷く手塚に他3名は何とも微妙な表情で視線を酌み交わした。
「ところでこれ何?」
「跡部宛ての恋文。ラブレター。ちなみに本日分や」
「へぇ、やるじゃん」
「毎日毎日えらい騒ぎやで」
「さすがだな」
「んなん、面倒なだけだ」
「見てもいい?」
「越前っ!他人宛ての手紙を見るのは失礼だぞ」
「構わねぇよ。どうせ中身なんざ似たりよったりだ。ただし気をつけて開けろよ。いきなり手で破いたりすんじゃねぇぜ?ハサミ使って切り込み入れたら台の上に中身を振れ。その後も無闇に手ぇ突っ込むなよ?そこにあるピンセットを使ってつまみだせ」
「随分慎重だな」
「跡部は人気も絶大やけど恨みの類いも半端やなくてな」
「剃刀でも仕込まれていたとか?」
「古典的だが有効な嫌がらせだよな。あとは明らかに盗み取りとわかる写真と粘着系の脅迫めいた手紙とかもあったな」
「使用済みコンドームとかあったやんか」
「・・・・・・・・・・・・思い出させるな」
「それは、冗談ではすまないのではないか?」
「そいつは完璧にイッちまってたからな。徹底調査の上、しかるべき対処はしたぜ?まあ付属物がなくと『あなたを殺して私も死ぬ』な類いは少なくねぇけど」
「――何か開けるの怖くなってきた」
「無理して開けるこたぁねぇぜ。全部捨てちまう方が後腐れねぇんだが、やばい奴もあるからな。自衛の意味もこめてチェックしてる。大部分は好きです愛してます付き合って下さい抱いて下さい、――――とまあ無害だ」
「いや最後のそれはどうかと」
「跡部ー隠したらあかんて。やりたいやらせてくれ突っ込ませてくれーちゅうのもあるやん」
「‥・・・・忍足、てめぇ」
「いややわ景ちゃんそない怖い顔せんといて ー」
「――モテモテだね」
「越前、てめぇも何抜かしてやがる!」
「そうだ。笑い事ではないだろう?」
「笑い事にするしかないやんか。ディープ過ぎやし。で、越前、戻さんの?」
「これだけ、開けてみるっス。手にとってるし」
「気ぃつけてな」
「油断せずにいけ」
「‥・・・・・・・・」
リョーマは慎重な手つきで封筒を開けた。
跡部の注意どおり直接指は突っ込まず、ピンセットを使ってそろそろと引き抜く。特に変なものは入ってなさそうだとほっとしたか、幾分力の抜けた態で手紙を開いた。
「何も書いてないんだけど」
ぴらっと三人に向けてみせた。三人の前に赤い便箋がひらひらと揺れる。
「忍足」
「―――わかっとる」
跡部の声を受け、忍足がリョーマの手の中から手紙を引き抜いた。その手はいつの間にか白い手袋がはめられていた。
「どうだ?」
「血やない。匂いがちゃう。絵の具に浸したか‥‥」
「はっご苦労なこったな」
「跡部?血とは?」
「動物の血、自分の血、他人の血。それぞれで訴えてくるメッセージが違うな。人工血液って手もある。だがこいつは悪戯の類いだろ。これ以上エスカレートしなければ、だが」
「跡部さん、大変なんスね」
「おうよ。愛されすぎちまってな。全く人気者は辛いぜ」
「そういう事を口にするから反感を買 うのではないか?」
「過剰な愛情よかましだ」
「・・・・・・それは、そうかもしれないが」
本来ならば否定すべきなのかもしれないが、跡部と忍足の話を聞いた後では、それを致しかねる手塚だった。
視線を逸らせば箱一杯に手紙が詰め込まれてる。この中にどれだけ純粋な愛情があるのか――どれだけ狂気が紛れているのか――自分が臆病だとは思った事がない手塚だったが、この時は背筋にぞくりと震えが走った。
吐く息も白くなる季節の朝。音の途絶えた静寂の中で温かなベッドから身を起こして抜け出し、床に足をつくとひんやりとした凍えるような低温を感じ取る。そんな日は窓を覆うカーテンを開くと、硝子戸の向こうは一面の銀世界という事が何度かあった。そういえば、前日の夜は嫌に足元から冷えを感じたな、とその時になって思い出したものだ。
今、跡部は荒い息を吐いている。
上がりきったとは言わないまでも、数回の深呼吸程度では戻らぬ息と速まった鼓動。顔面を伝う汗は髪を吸い取り額に髪を張り付かせている。ぐいと肩口を使い汗を拭うが、後から後から滴る汗はまだ留まりそうもなかった。
走り続けている時は、球を追い続けている時は、これが不思議と気にならない。だが、ゲームを中断された中での休息は、全身から発する汗をいやに不快なものに感じさせた。
息を、吐く。
息を、吸う。
呼吸を整える。
試合終了のコールがかかっていない以上、この間をもって上がった息を整えるのは必要な事だ。
試合再開ともなれば、すぐさま応戦できるように。
だが。
再開、されるのか?
手塚は、戻るのか?
今の状況は跡部が望み、こうなるようにと仕向けた。ゲームを支配し、そのように誘導した。
多少の目論見違いはあったものの、跡部の計算通りだ。
だが、何処にも達成感はない。
それどころか、何処か取り残されたような虚脱感を感じている。
手塚が連れていかれた。
治療の為か容態を見る為か、ベンチに下げられた手塚。
跡部がそう仕向け、その通りとなった。
喜ぶべき筈だというのに。勝利は目前であるというのに。あの手塚を下したと言えるのに。
冷えてくる。
火照った体が、氷のように冷えてくる。
足元からしんしんと、凍るような冷気が伝わってくる。
熱い筈の体が冷たい。
汗が滲んでいた筈の手指が凍りついたような無感覚の重みの中、ラケットを握っている。
寒い。
寒くて、仕方がなかった。
凍りつきそうだった。
ぶるりと跡部が寒気に思わず身を竦めた時、青学サイドから歓声が上がる。
声援の中を歩いてくるのは――――手塚。
その瞳にはまだ戦う意思がある。
「―――待たせたな跡部。決着をつけようぜ」
手塚が言い放つ。痛みを、苦しさを堪え、どうという事はないという表情で。まるで靴紐でも直し、待たせてすまなかったな、とでもいうように。
ああ、待ちくたびれたぜ、と跡部は目線だけで己の意思を手塚へと伝える。
熱が
こもるような熱が
戻ってきていた。
音もなく扉を押し出す。室内に流れている音楽は古いクラッシックのレコードからだ。
薄暗い店内には人の気配が少ない。カウンターの奥に立ち、無言でグラスを磨いているマスターのみだった。
「いらっしゃい」
「――開店休業状態じゃねぇの。やってけんのか?」
「趣味が高じた店だからね。まぁつましくも食べていければ問題はないさ」
「まぁ一日流行りでもねぇ辛気臭ぇ曲を垂れ流してられんのは、喫茶店か何かぐらいだよな」
「そういう事だね。席は空いている所へどうぞ」
「何処も空いてんだろ」
「ははは。まぁそう言わないと」
「・・・・・・・・・・・」
穏やかに、緩やかに笑むマスターにそれ以上は突っかからず跡部は静かに腰を降ろした。
疲労の残る体からすれば、スプリングが弱いとはいえソファの方が良い。他に誰も客の居ない状態であるから、4人席を陣取ろうと何ら問題もなかった。が、跡部はマスターの立つ位置から2つ3つ離れたカウンターの席へ座った。すぐ脇に、肩に担いできたラケット入りのバッグを立てかける。
「試合帰りかい?」
「ああ」
差し出された暖かな白いおしぼりを片手で受取った跡部は、丸まったそれを軽くふって開いた。ごしごしと揉むようにして手指の汚れを落とす。
明らかに年長者相手――しかも穏やかな態度を崩さぬ相手に通常ならば跡部がこのような物言いをする事はない。外面が良いというか、公私の使い分けが徹底しているというか、跡部の態度の使い分けはある意味大層わかり易いものであった。だが、この店のマスターに対しては跡部の態度はぞんざいだ。しかしながら相手を侮っているわけではなく、敵意を抱いているわけでもない。つまりな所、この人物は跡部にとって年の離れた友人であるのだ。
「それでしばらく顔を見せなかったんだね。寂しく思っていたよ」
「――――これからは寂しい思いはさせねぇぜ?」
「・・・・・・・・・・?」
はん、と鼻で笑うような跡部の口調におやとマスターの眉が僅かに潜められる。静かに視線が合わせられたのは一瞬。何を伝えるでもなく視線はどちらどもなく外された。
客商売を行っているからばかりでなく、聡い相手である。人の感情の機微、言葉の裏側、態度の裏にある感情や本質を見極める事に関しては跡部の眼力(インサイト)にも及ぶ程のものがある。それを時に煩わしく思う事もあるが、この時ばかりは心地良いものと跡部は感じていた。この相手は余計な慰めや気遣いを口にする人物ではないから。だからこそ、跡部は樺地と途中で別れ、自宅に戻る事をせずにこの店にやってきたのだ。――――関東大会の会場からの帰りがけ。
初戦敗退。
負ける事は初めてではない。だが最後の戦いに於いて、部員達を全国へ連れていけなかったという事実は跡部に重く圧し掛かっていた。
自分一人の感情でいうならば、あれだけの戦いを手塚と繰り広げられたのだ。満足でない筈がない。手塚には勝った。が、青学には負けた。逆であればどうだっただろうか。自分が手塚に負け、氷帝が青学に勝てば。いや、所詮は仮定の話か。
「?」
静かに物思いに耽っていた跡部の前に、カップが置かれた。
「まだ頼んでねぇぜ?」
「今日は僕の奢り。久々に君の顔が見れて嬉しいから」
「はっ!んな事抜かしてっから、アンタ独身なんじゃねぇ?」
「そうかもしれないね。こんなに綺麗な顔を見慣れてしまうと、なかなか目が肥えてしまって困るよ」
「・・・・・・・・・・・皮肉も通じねぇのかよ・・・・」
額を抑えて頭痛に耐えかねるような跡部に反し、マスターの方は「ははは」と笑い、朗らかで楽しげだ。あまりこの手の冗談を好かない(大部分は跡部を貶める為の中傷的な意味があるので)跡部だが、この人物相手だと怒るだけ無駄だと好い加減悟りつつある。それでも日を置かずとは言わないけれど、それなりの頻度で通い詰めているのは、この静かな空間が跡部にとって心地良いからだ。
派手好きな目立ちたがりと評されがちな跡部であるが、周囲の目が無い一人の場となると静寂の方を好む。趣味が読書と釣りという事からもそれは現れているだろう。己の役割りというものを誰より理解っているので、『氷帝学園の跡部景吾』という役を求められるままに見事に演じきっている。それを重荷と感じた事はないが、常に他人の視線を浴びている状態というのは正直鬱陶しくもある。それは家においてさえも同じ事だ。『跡部家の一人息子』という役割りが、寝ても覚めても付きまとう。
だからある意味この店などは跡部にとって避難場所の一つであると言えよう。曝け出してしまいそうな自分を宥め、いつもの『跡部景吾』を取戻す為にほんの少しだけ休みを入れる宿り木のようなものだ。
恐らくは気遣いだとわかってはいたが、突っぱねるのも大人げないし咽も少し渇いていた。無言のままに跡部はカップを持ち上げ、口元へと運ぶ。
「―――苦味、少ねぇ。豆、変えたか?」
「普段のブレンド用の豆とは違うのは確かだけどね。それは淹れ方も少し特殊なんだ」
「へぇ?」
くいと咽を潤す珈琲は、予想よりも幾分まろやかで癖が少ない。元々安物の豆など扱ってはいなかったが、今日のこれは跡部も初めて飲む味わいだった。そして――悪く、ない。
「ダッチ珈琲と言ってね、一晩かけて少しずつ抽出していくんだよ」
「気の長ぇ話だな」
「そうしてゆっくりと引き出したからこそ、癖のある苦味が消えるんだ」
「は、ん。ま、悪かぁねぇな」
「気に入って貰えて嬉しいよ。昨晩これの準備をしていた時、君の事を想っていたから」
「はぁ?」
「丹念にゆっくりと時間をかけて―――そうして君が出来上がったんだなぁ、とね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬っ鹿じゃねぇの?」
聞きようによっては口説き文句にも取れなくもない言葉を受けて、跡部は再び脱力感に襲われていた。気を張っていた自分がそれこそ馬鹿であるかのように。
「・・・・・・・・・・・・・・」
全く変な親父だぜ、と思いつも立て直された己も感じ、自分も結構単純なもんだ、と笑い出したいような気分で跡部は残りの珈琲を飲み干した。
「――――わかんない」
その呟きは実に本心からのものだった。
しかしそれに返された答えというか言葉と態度は二者ニ様。
ついでながら、厳しくはあっても決して甘やかすものではないあたり、リョーマにとっては全くの救いにならない。
「越前。何がわからぬのか言ってみろ。具体的に示してくれなければアドバイスのしようが無い」
「ばーか。何がわからねぇかわからねぇってのがこういう場合のセオリーだ。てめぇ、将来教師にでもなったら落ち零れ生徒がますます落ち零れんぞ?」
「別に教師になる予定はない」
「どうだかな。性格的には合うと思うんだがよ。まぁ言葉足りねぇし、仏頂面だし、ガキ相手はやっぱ無理だろうな。小学生相手はやめておけよ」
「だから俺に教師になる予定はないんだが」
「まぁ、手塚の事はどうでも良いが」
「・・・・・・・・・・・・・」
「越前。てめぇ、実際の所あと何が残ってんだ?残り時間は限られてんだぜ?っつーより、当に過ぎてんだろ?夏休みの課題なんざな、中盤前には終わらせとくのが常識だぜ?全国大会やら何やらで時間に追われていたのはわかるが、そりゃ他の奴も条件は一緒だ。まぁ聞いた話じゃ青学の連中は締めが悪いみてぇだな。まともに済ませていたのは、手塚・・・・は当然だが、後は大石・乾・不二ぐらいだと?青学も確か文武両道を示していたんじゃなかったのか?テニス馬鹿結構だが、やるべきこたぁきちんとやるのが男ってもんだろ?」
「お説教聞きたくない。今更だし」
厳しく甘さの欠片も無い二大元部長の言葉を前にリョーマは悄然とするどころかむっと不満そうというか恨みがましい視線を向けてくる。はっきり言えば自業自得でしかないのだが、ここまで切羽詰まってくると己が悪かろうと悪くなかろうと(いや悪いのだが)他所へと怒りを向けたくなってくるのだろう。
そんなリョーマの態度に長く部長として指導してきた手塚は咎めるような視線を向けるが、それでへこたれるようでは越前リョーマとは言えぬであろう。
跡部の方はといえば、相変わらずの生意気ぶりに口元を軽く緩めてみせた。この反応の違いは本人達の性格もあるだろうが、取り巻く周囲によるものからも来ている。
手塚の厳しさはグラウンドをやたらと走らせる事からもわかるようによくよく部員達に知れ渡っている。
跡部の方も妥協は許さないし手塚に負けず劣らず厳しいし、その口の悪さと言えば心弱い者なら膝を抱えて泣き出してしまいそうなものであるのだが、これで結構実は甘い。何のかんのいって身内を見捨てる事はないし、口汚く罵ってはいても結局は最後まで付き合ってくれるし面倒を見てくれる。
そんな甘さを知っているのが氷帝部員達であるので、寄れば触れば口論しているように見える彼らだが、よくよく見てみればいつでもつるんでいるというわけだ。
「まぁ確かに今更だな。この程度の説教でへこむてめぇじゃねぇのも今更だ」
「跡部、お前は何を言いたいんだ?」
「だからそのままだよ。今更説教しても仕方ねぇ事だろ?時間の無駄だ。それより今は目の前の物を片付けるのが先って事だ」
「あまり甘やかすものではないと思うが」
「そう思うならこうなる前にきちっと締めとけよな。こいつはてめぇの怠慢の責任もあるぞ?部員の日常を管理するのも部長の役目だ。違うか?あーん?」
「――――それは、確かに、そうだが・・・・」
「とにかく片付けなきゃ先に進めねぇ。選抜は明後日からなんだぜ?こいつをそこまで引っ張るわけにゃいかないだろうが。――というより、んなふざけた半端な真似はこの俺様が許さねぇ。今晩中に全て片付ける。手塚、てめぇも働け。反論は許さねぇ。ってわけで越前、残っている宿題をこっちに積め。終わった奴はそっちだ。仕上がってねぇ奴をまず表にする。分担できる奴は俺と手塚で片付ける。俺様は器用だからな。小汚ねぇ字の模写も問題ないから安心しやがれ。まぁ汚ねぇ字の方が模写し易いってのも事実だがよ。それで一番の難関は何だ?」
「・・・・・・・・感想文」
「あぁ?読書感想文か?んなもんちゃちゃっと書けば済むもんだろうが」
「そんな事言ったって!作者の気持ちなんか全然わかんないんだけど!他人の気持ちなんか文読んだだけでわかるわけないじゃん!大体活字なんかひとつ読むだけで眠くなるし!こんな分厚い本読むなんて絶対無理!」
「逆切れすんなよな。ったく、向日みたいな事抜かしやがって・・・・。で、何を読めって指示されてんだ?」
「・・・・これと、これと、・・・・・これ」
「三冊?随分多いな」
「越前は一学期の国語の成績が壊滅的に悪かったんだ。まぁ帰国子女だから仕方ないという面もあるのかもしれないが」
「あん?俺だって氷帝入学の前は英国に居たから帰国子女だぜ?国語だろうが何だろうが赤点なんざ取った事ねぇけど。俺様には苦手科目はないからな」
「どうせアンタとは頭の出来が違うんでしょ」
「卑屈になんじゃねぇよ。――ふん。いかにもお題目にされそうな本ばかりだな。おら、越前。こいつを見とけ」
「――――何、これ?」
「主だった物の後書きをまとめたもんだ。こいつを見て感想を書けば良い。感想文なんざな、大体の当たりで書くもんだ。後は本文の方を軽く流して補足すりゃいい。別に馬鹿正直に全部隈なく読む必要なんざねぇんだよ」
「―――跡部、その姿勢はあまり正しいとは思えないのだが」
「はっ!それだからてめぇは生真面目一本槍ってぇんだよ!何事にも融通は必要だろ。臨機応変って奴だ」
「跡部、さん」
「ん?何だ?」
「・・・・・・これ。わざわざ、まとめてきてくれたの?」
「―――青学のスーパールーキー越前リョーマは国語が苦手だっつー話を聞いた。どうせこんなこったろうと思ったが、予測通りだったみてぇだな」
「さすがは跡部という事か」
「ばーか。こんなんで褒めてんじねぇよ。それよりてめぇはお得意の科目から片付けていけ」
「了解した」
「・・・・跡部さん・・・・・・・・・・・・・・・・ありがと」
「てめぇも礼なんざ言ってる暇あったらさっさと始めろ。今日は眠ったら容赦なく張り飛ばすからな。朝までには全部片付けるぞ」
「わかった。油断せずに行く」
「てめぇにゃ言ってねぇ」
「まだまだだね」
「そりゃてめぇの宿題の残りだ!」
こうして。越前家における『夏休みの宿題特別延長戦』は、2大元部長の協力を得て、夜を徹して行われたのであった。
「・・・・も、も、駄目・・・・」
「情けねぇな」
「うう、限界です。もう無理です・・・・勘弁してくださーい・・・・」
「てめぇが『やる』と、言ったんだよな?」
「面目次第もございません」
「で?どうするつもりだ?この始末をよ」
「どうしましょう?」
冷ややか〜に問いただす跡部に、千石はひたすら小さくなるばかり。
「はっ。てめぇで考えな。制限時間まではまだ幾らか余裕がある。奇跡を起こしてみろよ」
「こ、こんな時こそラッキーの出番だってのにーー」
「ふん」
箸を握りしめて突っ伏した千石を、跡部はちろりと冷たい視線で一睨みした後、席を立った。
「跡部くん、ど、どこ行くの?」
「外の空気吸いに行くんだよ。てめぇは少しでもそいつを減らせ」
「はーい」
千石をすげなく突き放した跡部は外に出ると見せかけ、静かに店主の方へと近付ていった。
「ギブアップかい?」
「最初からチャレンジする気もなかったんですがね。――ところでこちらはカードは使えませんよね?」
「おいおい。どこのお坊っちゃんだい。冗談言って貰っちゃぁいけねぇな。こんな店で使えるわきゃないだろう」
「そうでしょうね。実は現金の持ち合わせがないもので」
「・・・・警察呼ぶか?」
「少し待って頂ければカードで下ろしてきます」
「信用してぇのは山々だが、昨今のガキはなぁ」
「馬鹿な真似はしませんよ。これでもそれなりの地位におりますので」
「地位?」
不審気な店主に跡部は懐から生徒手帳を取り出して翳してみせた。
「こりゃ驚いた。あの氷帝学園の生徒さんかい。なるほど、高そうな制服だ」
「一応生徒会長をやっています」
「ますますおどろいたね。確かに貫禄あらぁな」
「どうも。それで一つお願いが・・・・」
「何だい?」
「戻るまでの間、
アレを見捨てたものとして扱ってくれませんか?」
「そりゃぁまた・・・・何でだい?」
「――お調子者ですので。少し灸をすえてやろうかと」
「ははん。なるほどね」
「補導の真似ぐらいやって脅しつけても構いませんよ」
「逃げないかね?」
「あれもそこそこ名の知れたスポーツ選手ですから。それにあれだけ目立つ風体ですから逃げようもないでしょう」
「なーるほどな。よっしゃ乗ったろう!」
「有難うございます。お礼になるかわかりませんが、今度身内の部員達を連れてきますよ。・・・・普通のラーメンを食べに」
「ははっ凝りたかい?」
「次はきちんと味わって食べたいと思います。あの馬鹿の口車に乗せられずに」
「―――そうしてくんな」
ラーメン屋にはそぐわぬ瀟洒な印象を持つ少年が綺麗な微笑みを浮かべるのに一瞬見惚れた店主ではあったが、すぐに己を取り戻しにっと笑って返した。
そんな二人が悪巧みの視線を交わす中、一人千石はスープを吸って更に容量を増しつつあるスペシャル特大ラーメンと格闘し続けるのだった。
太陽の日が陰った。
染み出だすかのように曇天が空を覆い隠していく。
「―――――」
そろそろだろうか。
足を止めて脇を見やる。予測違わず一人の少女が立っていた。
目の醒めるようなショッキングピンクの合羽に赤い傘。
すらりとスカートから覗く白い足は多分黄色い長靴を履いていたのだろう。
くるくると傘が回る。
弧を描いて回る。
雨は降っては、いない。
「跡部?どうした?いきなり立ち止まって」
「いや。・・・・・・来るぜ」
一歩先を歩いていた手塚が立ち止まって振り向く。跡部が顎をしゃくる様に、怪訝そうに空を見上げた。
「確かに、いきなり曇ってはきたな。だが予報では降るとは言っていなかったが」
「俺様の予測の方が当たるんだよ」
「それはインサイトか?」
「何でもかんでもそれにすんなよな。特殊能力みたいじゃねぇか」
「俺からすれば跡部のあれは超能力にも思える」
「はん。まあ、そういう事にしてやってもいいがな。――とにかく早く場所を決めようぜ。降られる前によ、と遅かったか」
跡部の言葉が早いか否か、というタイミングでぽつりと来た。
ちっと舌打ちする跡部に手塚が軽く驚いたような視線を向けている。
跡部はその腕を掴み、目についた店の方へと手塚を引っ張った。
鍛えているから風邪等引かないと、言うは容易いが試すのは馬鹿だ。わざわざ肩を冷やすような真似をしようとは思わない。過信と自信は全くの別物なのだ。
駆け込んだ先はしっかり営業中の札がかかっており、いよいよ雨が本格的となる前に辛うじて屋根のある場所へと避難できたようだ。 そんな二人を見送るかのように、くるくると赤い傘が回っていた。
「いらっしゃいませー!お二人様ですか?」
「ああ」
「お席にご案内しまーす。2名様御来店でーす」
明るい声に導かれ跡部と手塚の二人は店の奥へと進んだ。
標準より高い投身にどちらも趣の異なった美形が二人。客の姿は少ないが、店員達はこぞって二人の動きにより視線が動いた。
「こちらのお席へどうぞ!」
「ああ、すまない。・・・・跡部?」
立ったまま動こうとしない跡部に手塚が声をかける。だが跡部は少し考えこむように顎に手をあてていた。そしてウェイトレスの方へと顔を向けた。
「別の席でも良いか?」
「え?あ、はい!か、かまいませんけれど」
「こっちにする。悪ぃな」
「い、いえ。お好きな席へどうぞ。お冷や、お持ちしますね!」
ウェイトレスが去った後手塚の目は真っ直ぐ跡部へと向けられる。今の行為に対する疑問であるのは間違いなかった。
が、跡部は敢えて回答を僅かに逸らす。
「―――不満か?」
「いや。こだわる方ではない。だが彼女は戸惑っていたな」
「通常人が好むテリトリーって奴があるからな。例えば角の席。例えば窓際ってな。接客マニュアルも大抵そうだ。まずは窓際の隅と隅。それから間をあけてつめていく」
「好きな席を選んで良いのだろう?」
「統計上それが好まれる席なんだよ」
「そうか」
跡部の言葉に手塚は納得したように見えた。察するようになったか、と内心ほくそ笑んだ跡部であったが、それはただの誤りと知るまでに時間はかからない。
「それではお前は何故窓際の席を避けたのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「跡部?」
「―――いや。そうだな。落ち着ねぇから、ってとこか」
「窓際がか?」
「正確にはあの席が、だな。ったく、雨が近くなると視界がぶれて仕方がねぇ。チャンネルがずれやがる」
「?」
「大したこっちゃねぇよ。単に雨とか曇りの日とかは、調子が今ひとつなだけだ」
「今のは跡部の弱点を知った事になるのか?」
「弱点?――くっ、あの狭いコートの中じゃ関係ねぇな」
「そうか」
口元を上げて笑う跡部に手塚が頷く。何も特別な事などない会話である。
それきり会話の途絶えた二人の間に、先ほどのウェイトレスが水を持って現れた。
カランと氷の揺れるグラスを二人の前に置く。
「御注文が決まりましたらお呼び下さい」とお決まりの台詞を残し、ウェイトレスは軽やかに二人の前から下がる。
その間、跡部は頬杖をつき、何を見るでもなく何かを考え込むかのように窓の方へと視線を向けていた。
雨の帳すらも透かし見た先に見えるのは
跡部の澄んだ蒼い瞳に映るのは
くるくると回る赤い傘。
少女は先程から動かぬ位置に居る。
そこは少し前までは、花束が飾られていた箇所だ。
時には小さな人形やお菓子が置かれていた事もあった。
ある雨の日の夕刻。まだ幼い少女が雨でハンドルを切り損ねた車に引かれるという悲劇のあった場所。
その少女はピンクの合羽を身につけ、真っ赤な傘を差していた。
日々をそれ一色で過ごしてくると。
それから離れてしまうと、どうにも手持ち無沙汰になってくる。
これも一つの貧乏性なのだろうか。
「―――跡部?」
「あ?」
期末テストが終わり、普段より幾分帰れる時間帯であった為、少しばかり遠くへと足を延ばしたその日。思いもかけぬ人物と遭遇した。
その華やかな――と言えば聞こえは良いが、派手な言動や挑発的な態度に放埓な人物という印象を持ってしまいがちだが、よくよく考えてみればそんな人物があのような大所帯の氷帝テニス部をまとめきれる筈もなく、また生徒会長としての資質も誉れ高かったという。
地道な努力など全く知らないように見えるが、跡部のテニススタイルを見ればそれが単なる勘違いであるなど一目瞭然だ。
「奇遇だな」
「てめぇの仏頂面に会うなんざ、楽しい偶然でもないがな」
「相変わらずだな、跡部。ところでここで話をするのは問題だ。向こうへ行かないか?」
「・・・・・・・・・いいぜ」
一瞬じっと手塚を見据えた跡部は、その端整な顔に―跡部の表情としてはお馴染みの―小馬鹿にしたような笑みを浮かべて頷いた。
周囲はしんと静まり返ったままであったが、そこに他に誰も居ないわけではない。カリカリと何かを書き込む音や、パラパラと本の頁をめくる音は、静寂の中でも響いていた。 ここは青春学園大学付属の図書館である。よって手塚がそこに居るには、まぁおかしいわけでもない。が、跡部がそこに居るのは「奇遇」の言葉で済まされるような問題でもなかった。
ロビーの方に跡部を誘った手塚は誘った手前、飲み物を奢る事とした。たまたま足を止めたのは、中等部でも評判はあまりよくない販売機の前であったので、僅かに躊躇いを抱いたが、他の販売機を選び直すまでもないだろうと、そのまま硬貨を投入する。
「砂糖とミルクは?」
「いらねぇ」
「胃に悪いぞ」
「自販機の分量は甘すぎんだよ」
「そうか」
跡部も自販機の珈琲を飲むのか・・と当人に聞かれたら「失礼じゃねぇか」と歯を向かれそうな感想を抱きながら、手塚は表面的には何も感じていないような顔で跡部の分の珈琲を選ぶ。自分用にはミルク入りを。
カップを手渡すと「サンキュ」と形ばかりの礼を言う跡部だったが、口をつけた途端に「――不味」と悪態をつくのも忘れない。まぁお約束という所だろう。
「それで?何か話でもあんのか?」
「いや。旧交を暖めようかと思ってな」
「・・・・・・似合わねぇ」
「・・・・・・お前は俺をどういう目で見ているんだ?」
「見たまんまだろ。無愛想。仏頂面。無骨者。社交性皆無」
「・・・・・・・・・・・・」
反論したかったのだが、否定できる所を思いつく事もできず、そのまま押し黙る他はなかった。これがチームメイトであればグラウンドを走らせる何なりでの報復もあるのだが、跡部が相手ではそうもいかない。これまでも口達者な者に囲まれていたというのに。
「はっ!てめぇは今まで、誰がライバル視しようとどこ吹く風で興味の欠片も持てねぇっつー態度だっただろうが」
「・・・・別にそういうわけでは、ない」
「ふん?」
「・・・・それなりに興味は、持っている。特に跡部、お前は興味深い人物だと、思う」
「そりゃありがとよ。天下の手塚国光に興味を持って頂けて光栄だ」
「・・・・どうしてそう棘のある言い方をするんだ?」
「これが俺様の常態だ」
「それでは敵を作るだけだろう」
「振るい分けできて丁度良い」
「どういう意味だ?」
「どういう意味でもねぇさ」
「・・・・・・・・・・・」
くくと笑う顔は皮肉気で、あまり質の良い笑みではなかった。
「まぁ、良い。それが跡部だというのならばそうなのだろう。ところでどうして跡部は此処に居たんだ?氷帝にも立派な蔵書を抱えた図書館があるだろう?」
「向こうにゃ無かったんだよ。検索かけて貰ったら青学の方に在庫があるって話でな、送ってくれると言われたんだが自分の足で来た方が早い」
「結構せっかちだな」
「時間を無駄にすんのが嫌いなんだ」
「それでは邪魔をしてしまったか」
「いや。もう貸し出しして貰った」
「そうか」
満腹の猫の如く満足そうな笑みを浮かべた跡部に、よほど楽しみなのだと伺い知れる。そういえば乾に教えられたデータの中で跡部の趣味は読書であると書いてあったのを思い出す。跡部はどのような本を読んでいるのだろうかと、ふと気になった。
「何を借りた?」
「気になんのか?」
「内容によっては次に借りてみようかとも思う」
「やめとけ。原書だ」
「・・・・・・・それは、確かに厳しいな」
教科書程度の英文ならば問題はないが、洋書そのものだと手塚には手におえない。時間をかければ読み進める事も可能だろうが、跡部の表情からいってかなり難解な本のようなので止めておいた方が無難だろう。
「・・・・・・・興味があったんだが、な」
「興味、ね。本に?俺様に?」
「両方だろうな。好む本を知れば、その人物をも知れるだろう」
「たかだか本1冊で読み取られてたまっかよ」
「インサイトはそう簡単に会得できるものではないか?」
「さぁな。手本にすんなら乾の方にしろよ」
「―――いや。できればそれは遠慮したい」
チームメイトであり、友人でもある少々風変わりな男の顔を思い出し、首を振る。日頃の奇態な行動を思い出すに、あまり真似をしたいと思える人物ではない。
「どの程度の期間、借りたんだ?」
「2週間って所だ」
「・・・・・・それで、読みきれるのか?」
「まぁ、時間に余裕があるからな」
今は――と声にならない声に小さく頷く。それは手塚にも共通する思いだ。
テニス部の一線から退いてから、どうにも時間が余って手持ち無沙汰な状態が続く。時には部の方に顔も出すが、引退した自分達があまり出張るのは後輩達の練習の場を失ってしまう事になるし、また自立心の育成からいっても良い事ではない。
「―――いきなり休暇を押し付けられたような気分ではないか?」
「あ?」
「日々の空いた時間が長い。特に平日の授業が終わった後は、倦む程に・・長い、休暇に入ったような気分なんだ」
「平日休暇、ねぇ。この機にと羽根延ばしている奴が殆どだろ?」
「周りはな。だが俺はどうもそういう切り替えがうまくないらしい」
「ま。そうだろうよ。しかし爺臭ぇ発想する奴だな。長い冬休みだとでも思えばいいのによ」
「跡部はそう思っているのか?」
「いや?だが空きがあるならあるなりに、過ごし方があるからな。それに学校行事からは開放されたが家の方はそうはいかねぇ」
「働き過ぎだと倒れるぞ」
「てめぇみたいなポカするかよ。自己管理には充分注意している」
「そうか」
「休む時は休む。遊ぶ時は遊ぶ。そこら辺りは抜かりはないぜ?」
「やはり俺が不器用なだけか」
「・・・・・・何ならこれから少し打つか?」
「―――いや。今日は止めておく。読みたい本なんだろう?」
「それほどでもねぇよ」
そう言う割りにはちらりと鞄に走らせた目つきはそうとは見えなかった。あまり付き合わせるのは申し訳ないかもしれない、と思わせるぐらいに。
「引き止めて、悪かった」
「別に」
「話ができてよかった」
「・・・・・・・・・・・・・」
「また会おう」とも「さよなら」とも口にするには何かが違う気がして、目線だけで別れの挨拶とし向けた背に呼び止めるような跡部の声がかかる。
「手塚ぁ」
「何だ?」
「―――次の休み、空いてるか?」
「・・・・・・特に用事はないが」
「んじゃ、付き合わねぇ?」
「テニスか?」
「いや。こっち」
テニスの誘いかと思えば、跡部は否定の言葉と共に首を軽く振ってみせた。その小さな動きが連想させるものは――――
「釣り、か?」
「ああ。お前もやるんだろ?」
「そこそこに」
「休みは満喫するもんだぜ?」
「・・・・そう、だな。では誘いに乗らせて貰うとしよう」
「硬ってぇの・・・・」
くすくす笑う跡部の笑い声が耳に心地良い。何だか気心知れた友人と話しているかのような気分になった。
「夜にでも連絡する。家電か?」
「いや。携帯電話の方が良いだろう」
「持ってんのかよ?!」
「どういう意味だ?」
「・・・・・・・いや。悪ぃ。番号、教えてくれ」
「わかった」
近づいてきた跡部に携帯電話の自番号を表示させたディスプレイを見せる。ほんの一瞬で読み取ったらしい跡部は、慣れた手つきで自らの携帯電話に登録した。
ぽっかりと穴の空いたような日々の中。
共に鍛え戦い競いあってきた仲間達はどのように過ごしているのだろうか。
少なくとも次の休日は、自分も彼等に習い遊興に満喫する事になりそうだった。