フェンスにもたれるようにして額を預ける姿に、ふと、足が止まる。
何故だか視線と意識が釘付となった。
その人物には見覚えがあって。無言の背を見るだけでも華やかさが何処か沸き立つ存在で。存在のみで華やかな光彩を放つ、独特の存在感を持つ人物なのだ。
「―――いつまで、突っ立ってやがんだ?」
「気づいていたのか」
「気配にゃ敏感なんだよ」
「そうか。跡部には武道の心得でもあるのか?」
「護身術程度ならな」
「一度手合わせ願いたいものだ」
「ばーか。てめーと戦るなら、コレ、だろ」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべて手首を捻らす跡部は、フリだけだというのにしっかりとスイングをしているのがわかる。
綺麗なフォームだな、と何とはなしに感心を抱く。
「跡部の頭の中はテニスばかりのようだな」
「そいつは俺に限る事か?すかした面しやがって、てめーはどうなんだよ、てめーはよ」
「何処も同じ・・・・だな。ところで跡部はここで何をしていたんだ?」
「単なるイメトレだ」
「ああ、そういう、事か。どこか厳かだったんでな」
「はっ、俺様はな、神頼みなんつー他人任せな真似は好かねーんだよ」
「そうか」
自信に満ちた跡部の笑みは、さもありなん・・と思わせるものである。
だが、と、同時に思う。
恐れを知らぬ帝王が、一人静かに頭を垂れる様は・・・・どこか祈りを捧げる姿に似て見えたのだ。
[
その姿は祈りに似ている ]
あの試合より、熱が引かない。
数日を経て、鉛のような腕の重みは引き、日常生活に滞りをきたす事はない状態となって。けれども思い切りテニスコートで思う存分テニスをやる事はできなくて。治療に赴いた際の医師の言葉を選びあぐねている曖昧な表情が、暗く沈む心にひっかかる。
後悔は、していない。選択は、誤っていたとは思わない。けれども結果はこの通りで。
誰をも恨むつもりなどないし、言うなればこの事態を引き起こしたのは自分であるのだと、わかりきっているのだけれど。
正直なのは心の方で、「何故、この俺が!」と、慟哭して訴えたいと衝動が沸き起こる。
己の女々しさというものに、つくづく嫌気を抱かずにはいられない。
求めたのは、己を高めるテニスと、それに類する好敵手という存在であった筈だった。
一体どこで、留め金を履き違えたのだろうか。
求めたものは得られたような気もする。あの一瞬に勝る瞬間は二度とない。
あれ程真摯な男と、相対できた事に喜びと誇りを感じずにはいられない。
だがそれでも――――勝ちたかった。負けたくはなかった。
手塚国光は跡部景吾に負け、青春学園は氷帝学園に勝利した。
試合に負けて、勝負に勝った。
この燻る想いは、掴みきれなかった勝利への未練なのだろうか。
「―――手塚?」
「跡部、か」
「どうしたよ」
「ああ。通院の帰りだ」
「で、調子はどうだって?」
「思わしくないな。絶望的と言っていい」
「ふぅん」
興味無さそうな相槌の中には、罪悪感とか後ろめたさの類を感じるようなものはない。
夕暮れの薄闇の中で、加害者と被害者が静かに語り合う。
これはひとつ、滑稽な光景なのだろうか。少なくとも、青春学園の仲間達がこの場に居れば、抑えるのが大変だったろう。
そうでなくて良かったと思うのは、手塚が跡部に抱く好意故なのか。
あの試合までは、面倒な奴だ・・・・というばかりの印象だった。
あの試合の後は、ひどく、跡部景吾という存在を知りたくなった。
自分がいかに今まで何も見ていなかったのか、自覚したのだ。
「恐らく、東京を離れる事になると思う」
「へぇ、いつよ?」
「近く、とし言えない。宮崎の方にいい施設があるそうだ」
「そりゃ結構なこった。とっとと行きやがれ」
こうして注意すれば、ぞんざいな口調の裏にある気遣いなどすぐに感じ取れる。
甘い言葉やいたわりの言葉など、けして紡ぐ相手ではないが、心が擽られるような喜びを与えてくれる。
「そうだな。さっさと行って―――戻って来よう」
「ったりめーだ。部長の責任放ったまま、遁走すんじゃねーぜ?」
「当たり前だ。・・・・・・跡部」
「ア?」
「行って、来る」
「――――ああ。行って来い」
欲しかったのはこの言葉だったのだろう。
燻る想いは、すでに治まっていた。
代わりに――――この男を抱きしめたいと、そんな想いが溢れそうになったけれど。
[
ともすれば零れそうな想いが ]
振るう腕が重い。
まるで、自分の腕ではないような。それは、あの死闘とも言える戦いの中で抱いた焦燥感よりもじりじりと胸を灼いた。
意識を向ければ向ける程に上がらない。伸びない。振り抜けない。
医師は順調に回復していると言った。
では、これは何なのか。この突き刺すような痛みは、何なのか。
ゆっくりいきなさい、とリハビリを受け持った医師が言った。
ゆっくりしている時間など、ない。ラケットを手にとり、前へと差し出す。向こう側に跡部の顔が見えた。
笑んでいる。
皮肉気に口許を歪めて笑っている。
まるで、こちらを嘲笑うかのごとく。
いや、それは幻だ。妄想だ。最後に言葉を交わした際の跡部はそんな風には笑わなかった。
記憶を再構築してみれば、思い起こすのは、手を延ばせば触れれるのではないかと思える程にリアルで毅然とした立ち姿。
「―――会いたいと、思うこの心は・・・・何なのだろうな」
ほんの少しだけ、心を通い交わしたというわけでもないのに、跡部と差し向かいで話したあの折りから、どこかに何かを置き忘れたみたいに気にかかる。
顔が見えずとも、声だけでも聞きたいと思うこの心の欲求は、一体何なのだろうか。
別れる際に跡部は手帳を取り出し無造作に破くと携帯ナンバーとアドレスを走り書きして寄越した。欲求をかなえるのはいたく容易な事で、簡単でいて、その癖何より難しい。
足踏みしたままのこの状況では、会わす顔もないというものだ。
不様な真似は二度と見せない。
再びテニスをする為に。その為にここに来た。
けれども戻るその時は、誰でもない、あの存在の為に戻ると・・・・・・・・・言えなくもない。
[
誰でもない、君の為に ]
抽選会の会場は非歓迎のムードの中で幾つか混じる好意的な視線というものだった。
けれどもそれは、挑戦的な、いかにこちらを叩きのめすかと、そういった喜び混じりのものでもある。
そんな中、一際強い視線。背中越しにもそれが誰だかよくわかる。
跡部景吾。ここで会えるだろうと期待していた相手だ。
最初に手塚に向けられた挑発を除けば抽選会は滞りなく進められた。
青学と氷帝は同ブロックだが間に数試合ある。シードを受けた青学は一つ。持ち上がりの氷帝は二つ。確実に勝ち上ってくるだろうと確信できた。
「・・・・・・・・大石」
「何だい?」
「先に校門前まで行ってくれないか?すぐに追いつく」
「誰か挨拶したい人でもいるのかい?」
「まあ、そんな所だ」
「慌てる事はないよ。皆に連絡でも入れていりから、ゆっくり話してくるといい」
「すまない」
人の良い笑みを浮かべる大石に軽く頭を下げ、手塚は足早に事務室へと向かう。会場に入る前に預けた品を受けとる為に。
礼を言い、目的の品を受取ってから足早に駆けていると、その背にからかい混じりの声がかかった。
「―――似合わねぇなぁ。ま、貰う方にゃその方がかえって心くすぐるかもな」
「それは良かった」
「あーん?」
「お前にだ」
「・・・・・・そりゃ、ありがとよ」
鼻先へと差し出すと、一瞬時を止めた跡部だったがそこはそれ、すぐに己を取戻して先の動揺などなかったかのように自然な動作で受取った。普通は男に、しかも中3の男子に花などそぐわぬものであると言い切れるぐらいだが、跡部という男は別格だった。
手塚の用意した花は一輪だけであり、それを簡易に包装して貰ったさり気無い品であるけれど。そんな花も跡部の手にあると華やかに見えるから不思議だ。そして跡部の場合、大輪の薔薇の花束も似合うだろうし、道端に咲く小さな野スミレ一輪も似合うだろう。そんな思いを抱く手塚は、色々と毒されているのかもしれない。
「・・・・・・ではな」
「って、てめー随分急いでいたようだが、まさかこの為だけだったのか?」
「見ていたのか。 その通り、と言っておこう」
「―――わかんねー奴だよな、てめーもよ。ここに女が居るのかとでも思えば、まさか俺様相手にとはな。で、いきなりな花贈呈の意味は何よ?」
「意味がないとまずいか?」
「別に構わないが、てめーにそういう気紛れは合わねぇよな」
「確かにそうかもしれないな。理由はないこともないが、聞きたいか?」
「いや。やっぱいーわ。理由もなく手塚からの花って方が気分が良い。花束でない所が、それなりにらしいしな」
「一中学生の懐事情ではそれで限界だ」
「はっ、その見てくれで言ってろよ。ま、有り難く貰っておいてやる」
ちゅっと音を立てて花弁にキスする。そんな様も絵になる男だ。
「―――もういいのかい?」
「ああ。用は済ませた」
「用事?」
「・・・・・・・献花のようなもの、だ」
「だ、誰かに不幸があったのかい?」
「いや、そういうわけではない。そのようなもの、というだけだ」
「そうか。良かった」
「・・・・・・カンパニュラ、ツリガネ草。その名の如く、複数の意味合いを持つ花だ」
「手塚?」
「いや、何でもない」
「そうか。急ごう。丁度バスが来る時間だ」
「ああ」
大石に手を引かれながら、跡部はどちらの意味に取るだろうかと、晴れやかな笑みを思い浮かべた。
[
献花の如く、それは ]
終わらなければ良い。
早く終わって欲しい。
ずっと見ていたい。
もう、見たくない。
相反する気持ちはどちらも正直なものだった。
全てを託した後輩である越前と、他に変え難い存在である跡部と。二人の試合をただ見る自分。
ああ、何故自分は外にいるのか。コートの中に居ないのか。
越前と戦いたい。
跡部と戦いたい。
本当は、あの場にいたかった。
氷帝学園との再戦において。激戦を勝ち抜いてきたチームメイト達は、自分が離れた時よりも遥かに強くなっていた。人は僅かな期間の間にも成長するものだ。ライバル達との試合を経て、仲間達は更なる飛躍をして遂げていた。
関東大会の初戦で敗退し、三年生を主軸としていた氷帝のメンバー達は引退したと聞いていたが、その僅かなブランクをものともせずに、全国大会において氷帝ここに有とその名を見せ付けた。圧倒的な強さをもって、勝利してみせる彼等は、開催地枠によるお情けの参加などという陰口をその実力においてものともしない。元々、力ある相手だ。
2度戦い、必ず勝てるとは言えない。どこも強敵であるのだが、氷帝学園というのは不思議と身が引き締まる思いのする相手である。
試合時間がおりよくずれこんでくれたお陰で、氷帝戦を観戦する事ができた。久々に見る跡部の試合は、やはり華麗で目を惹きつける。
焦がれるように見つめている己を自覚しないでもなかった。早く、戦いたいと。再び試合をやりたいと、その欲求と期待感に打ち震える心を抑えた。
けれども。監督から示されたオーダーは、それを打ち砕くものであって。理性では、わかる。今一番期待をかけられるのは、自分ではなく越前であると。万全の状態の自分であっても、跡部に確実に勝てるとは言い切れないと。跡部以外ならば、他の誰が相手だとしても、自分は負けないと言えるのだが。
青春学園の部長として、受け入れるべきとことは受け入れなければならなかった。失望を抱いたのは確かだが、ここで自分一人が我侭を通すわけにはいかない。何より、今ここまでチームを引張ってきてくれたのは、仲間達なのだ。
S2の試合において。驚愕に包まれるコートの中で、気にしたのはたった一人の存在。
跡部はこの事をどう見てるだろうか。逃げたと、思っただろうか。今までも、組み合わせのせいで跡部とは常に擦れ違ってきた。今回もそうであるとは、思ってはくれないだろうと、残念にも思う。本音の所は、お前と戦いたいのだと、それを訴えたらどうなるだろうか。―――まぁ、鼻で笑われるのがオチというところかもしれない。
河村相手の時もそうだったが、樺地という選手は感情面で揺れる事がないのか、手塚を前にしても動揺した様など全く見せなかった。これは、それだけ精神が落ち着いているという事なのか。それとも、予測済みであったと―――いう事なのか。後者であれば、跡部の見切りというところなのだろうが。
ちらりと、何気ない素振りで氷帝ベンチの方へと視線を流すと、一人静かにこちらを見据える跡部の姿があった。
得心顔でもなく、挑戦的にぎらつく瞳でもなく、見つめているのは自分と・・・・樺地。跡部もまた、部長の顔だった。
試合の方は手塚が勝ち、それは、雨という付加要素によるものはあったけれど、そこで示されたのは経験の差というものだった。その後激しくなる雨に試合が流れ、日を改めての再開となったD1は接戦の末に氷帝側の勝利で。全てはS1の試合へと引き継がれた。まるで、あの時を再現したかのように。
そして。幾たびかのアクシデントを経て、試合はどちらに転んでもおかしくないような状況となっていた。
こんな跡部の姿を見るのは初めてだった。自分に対しても、見せなかった姿。越前に、嫉妬すら・・・・・・抱く。
長い、長い、タイブレーク。どちらもすでに限界を超えている。
今更、誰に祈るというわけではないけれど。神とて、そんな手前勝手な願いを聞き届ける気になどなれないだろうけれど。
時を戻せるのならば、戻したいと思う。
この場は彼等二人のものだ。だが、その場に、在るべきだったのは自分だという自負もある。
変わって欲しい、その場にいるのはお前ではない。
どの面下げてといわれるかもしれないが・・・・・・・・・・・発してしまいそうな言葉を飲み込み、唇をきつく噛む。
終わりなどくるなと、願う自分と、早く終わってしまえと願う自分。
どちらもやはり真実だった。
越前に期待を抱き、信頼している自分も。
跡部に執着を抱き、渇望している自分も。
どちらも自分なのだ。
だが、やはり――――
望む願いは、早く終わってしまえ、に尽きるのだろうか。
自分でない相手と、あれ程までに熱く戦う跡部の姿を見るのは、正直面白くない。そんな自分の狭量さを、思い知らされた。
[
祈る言葉なんて持ってないけど ]