■氷帝学園湯煙事情
 
 
 
 
 
 
 コートの整備が入るからと、少しばかり早めに部の活動を切り上げた日の夕暮れ。
 初夏の陽気とハードなトレーニングに滴る汗を持て余した部員達が、汗と汚れを洗い流そうとシャワー室へと殺到したのだが、そこでは歓声ならぬ盛大なるブーイングやら悲鳴やら嘆きの叫びがそこかしこで沸きあがったのだった。
 
「げーっ!水出ねーじゃんっ!」
「こっちもだぜっ!」
 幾らノズルを捻ろうと、泣こうが喚こうが怒鳴り散らそうが、ない袖は振れない。出ない水は出ないという事で。泣く泣く彼等はべとつく体から汗を拭い、ユニフォームから着替えるしかなかった。
「うわ、汗臭ぇ」
「こんなんじゃもてねーよなーっ!」
「岳人、これからデートなん?」
「ち、ちげーよっ!悪かったな!どーせ俺には彼女いねーしっ!」
 忍足のからかう口調に真っ赤になって反論する岳人だった。跡部程ではないものの、忍足も大層もてる。
 一般的美的概念からいけば、けして推奨など出来ぬ筈の丸眼鏡であるが、一見すると冷たいとすら見える端正な面持ちの忍足の顔立ちの印象を和らげる役立ちを持っている。そして軽妙な口調と軽快なトークと相手を飽きさぬ話術は、当然もてる要素の一つだ。
 氷帝学園内の女生徒の人気を跡部と二分する存在である忍足にからかわれて、余計に岳人がむきになるのも当然の事だった。
「でも、このまま電車に乗るのも迷惑ですよね」
 爽やか好青年と評判も名高い鳳が己の腕を掲げてくんくんと匂いを嗅ぐ。本人ですら汗臭いと感じる状況だ。周囲にすればなおの事だろう。
「そんなに気になるなら、公園の水道水でも浴びていくか?」
「日吉って神経質に見えて時々アバウトだよね」
 気心が知れているせいか、同級生に向かいそんな進言をした日吉の横で滝が苦笑を浮かべた。
「せやな〜。あ、この先に確か銭湯あったで。寄っていかへん?」
「賛成!」
「いいですね」
「ま、このままじゃ気持ち悪ぃしな」
「たまには良いかもね」
「―――ス」
 と、忍足の提案に皆が乗り気となった。
 そんな中。
 一人沈黙を守っていた跡部に皆の視線が集中する。
 跡部はと言えば――携帯電話を片手に車を迎えに呼ぼうか思案中であったのだが。いきなりな期待というか何というかな視線の集中砲火を浴びて一歩引く。相手が彼等でなければ、ふんと鼻で笑い、さっさとその場を去ったであろう。だが、気心の知れすぎた相手というのは実に厄介で。
「跡部も行くよなっ!」
「気持ち悪ぃだろ?」
「ここはやっぱり一蓮托生だよね」
「あとべー!背中流してあげるC〜」
「――――――」
 ジローに腕に巻きつかれた状態となってしまえば、もう逃げ出しようがないのであった。
 何のかんの言って跡部は押しに弱い。一挙にたたみ掛けてしまえば、不承不承ながらも、盛大に文句を言い放ちつつも、付き合ってくれる。
 
 
 こうして。
 氷帝学園テニス部レギュラー陣プラスα(準レギュラー)における、庶民の湯、『銭湯』討ち入り状況と相成ったのであった。
 
 
 
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「おばちゃん、幾らなん?」
「400円だよ。おや、氷帝学園のお坊っちゃんたちかね」
「あたりやけど、坊っちゃんは一部やで。皆、小銭用意してや。400円」
 番台に座る女性に、忍足が愛想良く声をかける。忍足は背後に居たメンバー達に声をかけると、さっさと中へと入っていった。一人二人の人数ではない為に、入り口でたまっていては迷惑だからである。
 とはいえ。いまだ陽の落ちきらぬ時間帯。開店こそしているものの、客の姿は殆ど―どころか皆無であって、幸いといって良いのか彼らの貸切状態となったのであった。
 一人一人、代金を払いながらぞろぞろと中へと入っていく。氷帝メンバー達はそれぞれがまた皆系統は異なれど整った容姿であったので、番台の女性は思わずまじまじと見つめては見惚れてまた次に目を向けるといった眼福状態を味わっていた。
 そして最後にゆたりとした動きで入ってきた人物を見るに至っては、自分の見ている光景が信じられないとばかりに、ぽかんと口を開け、呆けた様になるぐらいで、人と人との裸の付き合いに慣れた女性なれども、跡部の容姿には度肝を抜かれたようであった。
「さすがやな。マダムキラーやんか」
「うるせぇ」
 少女のようにぽぉと頬を染めた番台の女性をちらと見た忍足が、くくと含むような笑い声を立てる。忍足単品とて充分美少年(と言い切るには見た目の年齢に少々問題があるのだけれど)であるのだが、跡部の見てくれは破格なわけである。
 実際、忍足を含めた氷帝メンバー達は、付き合いの長さもあって慣れてはいるのだが、初めて跡部を正面から見て者で固まらぬ方が稀だ。最も、顔立ちの端麗さは当然の事なれど、気を呑まれるようになるのは、跡部のあの冴えた蒼の瞳による効果も大きいだろう。
「荷物は隅に固めとけ」
 中に入って辺りを見回した跡部は、命じる事に慣れた口調で仲間達に指示した。
 着替えや荷物を置く棚は当然あるのだが、彼等の荷物はかなり幅を取るのでそこには収まりきらない。跡部の視線を受けて鳳が番台の女性に、荷物を寄せておく許可を取りにいった。
 タオルと着替えのみ取り出して、皆さっさと脱いでいく。今更恥ずかしがるような間柄でもないので、もじもじ恥らうような小心者は居なかった。お互いの一物・・もとい、分身たるムスコを覗き込んでは悦に入ったり、僅かながら落ち込んだり、鼻高々であったり、対抗心を燃やしたりと――まぁ、微妙な勝負は繰り広げられていたようであるが。
 ガラリと引き戸を開けると、もわと蒸気が押し寄せる。がらんとした浴場内は広々としており、渋々ながら付き合う事となった跡部も口元に僅かな笑みを浮かべた。
「岳人!ちょぉ待て!体流してから入るんや!」
「えーっ!細けーよっ!」
「貸切言うても、この後お客さん入るんやで?湯、汚したらあかん」
 中に入るなり、湯船に飛び込もうとした岳人の髪を引っ張り、忍足が止める。何のかんの言っても相棒の世話を焼かずにはいられないのか、それともこう見えて実は気配り屋であるというのか。
 しかしながら、忍足の言う事は正論であるのだが、それが故に反感を感じずにはいられないのか、小言を言われた岳人の顔は不満そうであった。
「向日。忍足の言う通りにしろ。わかったな
「・・・・わ、わかったよ・・・」
 相棒の言葉はともかく、厳しい口調で放つ部長の言には逆らえず―逆らわず、岳人は忍足の横から離れ、桶と板椅子を持って体を洗い流す為に壁側の方へと向かった。
 
 
 
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 それぞれが思い思いの位置に付き、トレーニングによる汗と汚れを洗い流す。銭湯の類に慣れていな者の中には、桶に湯を注いだつもりが殆ど水であったりと、それをまた頭から被っては、「冷てっ!」などと、悲鳴を上げる者も居たりした。
 それでも冬ではないので、風邪を引くという事もないし、横でとばっちりを受けた者に軽く睨まれるが、離れた位置にいて被害を受けなかった者には馬鹿だのドジだのからかわれるぐらいであった。
 部員達の動向を見据えていた跡部は、問題が無さそうだと判断すると他の者に習い自らも汗と汚れといった不快感を洗い流すべく、壁際の方へと足を向けた。その際、なるべく空いた位置を選んだのはほぼ無意識の反応である。
 まぁ、騒がしい事この上ないのがこの仲間達であるので、盛大に泡を飛ばしてくる奴の横とか、横に座ったが為に「流して流して〜」などとねだられるのを避ける為でもあったのだろうが。あとは下級生あたりだと、無闇に緊張させない為もあったかもしれない。
 と、無意識ながらの気配り故の行動であるにはあるのだが。それとは別に忌避という感情も無いわけではない。
 何が嫌とてそんな理由はただ一つだけ。無意識だろうと故意だろうと、委細構わず跡部の動向を無視して擦り寄ってくる似非関西人(もとい関西人であるのは間違いないのだが、その存在自体が何故だか全てが似非臭い)忍足の存在故である。
「――んだよ」
 隣に来るんじゃねぇ!とばかりに睨みつける跡部に忍足はへらりと笑って返した。
 蒸気によって曇った眼鏡が更なる胡散臭さというか似非臭さを倍増させている。外したからとて視界に困る近眼などではない癖に、浴場内でも眼鏡を外さぬこだわりぶりはいっそ天晴れと言うべきなのか、ただの阿呆と蔑むべきなのか。
「三助やったろか?」
「いらねぇよ、ばーかっ!」
 タオル片手にわきわき手を遊ばせる忍足を、蹴りつける真似にて撃退する。
「いややなー。部長サンに日頃の感謝をこめたろ、思っとるのに」
「鼻毛程でも感謝を感じてるんなら近寄んじゃねーよ」
 にへらと笑う忍足を、しっしと追い払う。風呂に入るならばゆったりと入りたいというのが人情である。そこに忍足など絡ませれば寛ぐものも寛がぬというものだ。
「んな事より、てめーは忍足なんだから、滑って転ぶぐらいの芸見せてみろよ」
「何やのそれ」
 跡部の言い分にさすがの忍足も呆れたような表情を浮かべる。
 そこに折り良く。正に狙いすましたかのようなタイミングで、ちょっとした騒ぎが起こった。
「ばっ!水かけんじゃねーよっ!」
「さっきの仕返しだ!」
「――ちょっ!」
 あくまでじゃれあいの範疇なのだが、小さな小競り合いを始めた向日と宍戸。この二人だけならば問題などなかったのだが、生憎というかたまたまそこに通りかかった日吉が居たりなぞして。向日を避けようとした日吉は後ろに一歩ばかり引き。そして――
 
 
 こけた。
 ずべっとこけた。
 
 まさにコントの如く、落ちていた石鹸に足を取られ――――
 
 
 つるっと滑ってどべっとこけた。
 
 
 
「・・・・・・・・・・」
 転んだ日吉はといえば、悲鳴を上げるどころか正に声も出ない状態。打ち付けた腰の痛みより何よりも、仲間達の前で醜態を晒した事にショックを受けている事だろう。
 が。しかしながら哀れなるかなここのところは氷帝学園。
 そんな後輩の繊細な心知らず――いや。よくよくわかっているのだろうが、そこら辺りを気遣うそぶりも見せぬのがこの面子という事で。何とか起き上がって恥の心を何とか抑えつけて顔を上げた日吉の前にあったのは・・・・・・二人の先輩がぐっと親指を突き出したまま、温かい笑みをもって日吉を見守る様だった。
 もしもこの場に青春学園テニス部部長手塚国光が居たとしたら。
 跡部に向かい「――満足か?」と生真面目一本槍の平坦な口調で尋ねた事だろう。そしてそれに対して跡部もまた、口元に笑みを浮かべてさも御満悦といった表情で、「ああ、満足だ」と言い切った事であろうか。
 
 
 
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「ええ湯、や〜な〜♪」
「――――」
 鼻歌混じりの忍足は、大きな湯船の中にて足を延ばしてご満悦。忍足の住む部屋にはユニットバスが付けられてはいるようだが、のびのび体を伸ばすというわけにはいかないらしい。相変わらず似非臭い眼鏡をかけたまま、頭の上に濡れたタオルを乗せて縁に腕を伸ばした忍足は悠々自適といった態で、誰より銭湯気分を満喫しているのは間違いなかった。
 その忍足の視線は、少し離れた位置へと向いている。そこでは、ダブルスの相棒である向日と、堅実、繊細なプレイが売りの滝が、湯船に肩まで浸かりながら、談笑していた。
「――なぁ」
 にへりと笑うその顔はやに下がり、これが氷帝の天才か・・?と首を傾げずにはいられない。一体何が楽しいのかと、気味悪がりながら疑問を抱くのが当然というものだろう。
「おい、忍足。お前、何で笑み崩れてんだ?」
「ん〜?そら、男の浪漫やろ?」
「・・・・・・・・・・ロマン?」
 口は悪いが純朴な所のある宍戸は、忍足の答えが不可解そうに首を傾げた。
「あかんな〜、宍戸は。見てみぃ、あの二人を。巻いたタオルからぱらりと崩れる細い髪。後れ毛が首元に貼り付いて、色っぽいやん」
「―――あいつら男だぜ?」
 しかも片方はお前の相棒――と、体と意識を引かせながらも宍戸は律儀に突っ込みを入れた。
「わかっとるわ。擬似体験、ちゅう奴やな。首から下が湯で見えへんから、想像で補えんねん。二人とも細身で華奢な方やし、混浴気分になるやろ?」
「――――ならねぇよ」
「侑士!止めろよなっ!親父臭いぜっ!」
「・・・・・・友達で欲情するつもり?変態臭いよね」
 冷たく言い捨てる宍戸と、即突っ込みで文句を言う向日に、穏やかな笑みを浮かべながらも無言の圧力を滲ませて圧力をかける滝。が、その程度の非難でへこむようでは忍足ではない。
 常日頃より、耳に心に肉体に、罵詈雑言罵倒三昧鉄拳制裁を某部長殿より受けている(その原因は主にどころかほぼ全て当人にあると言い切れるが)忍足であるので、それこそこの程度屁の河童であるのだ。
「ええやん。気分だけやし」
「いーわけねーだろーがっ!この糞変態へたれ似非眼鏡っ!」
「おわっ!」
 へらへらと笑う忍足の背後から、ガスと容赦なく力の限りどたまに蹴りを叩きこんだのは――かの麗しき部長様。氷帝学園の絶対君主帝王様、跡部景吾その人であった。その衝撃は軽く小突くといったようなものではなく、当然ながら非情極まりないもので、忍足の体は湯船の中央ぐらいまで吹っ飛んでいった。
「あたたたた。ホンマ、乱暴なやっちゃな〜」
「・・・・・・・・・・」
 頭をさすりながら文句を言う忍足を素無視しながら跡部は湯船に足を入れる。
 じわりと足元から馴染んでいく湯音に合わせてか、その動作はゆったりとしたものだった。
「―――んだよ」
 半身を湯に沈めた所で、相手などしたくないという態度を有り有りと見せる表情で忍足を睨む。じぃと一挙一動見つめてくる忍足の視線がさすがに鬱陶しかったようだ。
「いや、さすが跡部やわ」
「あぁ?」
「跡部やったら、そのままで
OKやし!」
「―――――」
 ぐっと親指を立てる行為はつい先程跡部も等しくやった事。しかしながらその意味合いは大きく変わるわけで。
 絶対零度の視線で忍足を見据えた跡部は、利き手を天井に大きく掲げる。そしてお得意のパフォーマンス、『ぱちーんと、高らかなる指鳴らし』、をやってのけた。湯に触れて指が塗れ、さらには湯殿という反響する場という事もあり、その音は朗々と響き渡る。
「――――やれ
「ウス」
「はいっ!」
 合図を受けて即座に駆けつけてきた2年生二人。尊敬する部長の命を受けて、二人はその恵まれた体躯を持って力づくで忍足を抑えつけ、湯船の中に沈めた。
 
 
 
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「――ぐげぼっ・・ごほっ・・がっ・・・・」
 湯の中から這い出した忍足が、ぜいぜいと空気を求めて喘いでいる。中々苦しそうだ。
「こ、殺す気かい・・・・」
「てめーがこの程度でくたばるようなら話は早いんだがな」
「さすが忍足先輩ですよね。しぶとさというか命汚さは尊敬できる程です」
「―――ス」
 同情心など欠片もなく言い切る跡部に続き、爽やかに額を伝う汗を拭いながら微笑み賞賛(?)する鳳に、いつもながらに表情を表に出さぬながらも心酔する部長と、友人の言葉に同意したのか大きな身体を揺すって首を縦に振る樺地。どうやらこの場に忍足の味方は一人も居ないようであった。
「ああ、孤独やわ」
 これみよがしにすんと目元を拭い涙をこする所作をする忍足であるが、泣き真似である事は明らかだ。
「同情ぐらいして欲しいわ。ったく、見たないモン目一杯おがんでしもうたし。夢に見そうやわ」
 じろりと恨みがましそうな視線を向けられた鳳は、俺ですか?とばかりにきょとんとした表情で見返した。うーん?と思い当たる節を脳内リサーチし、「ああ」と、拾い当てたキーワードにぽんと手を叩く。そしてにこりとご近所界隈の奥様方にも大評判の好青年スマイルを浮かべて言い切った。
えっち
「――――――」
 ひくりと、さしもの忍足の口元も歪む。
「俺、お婿さんになるまでは綺麗な身体でって決めてるんですから、寄んないで下さいね?」
「阿呆っ!頼まれても寄るかっ!お前が俺に圧し掛かるから、ぎょうさん拝まされたんや!目の前でぷらぷらしとったら嫌でも目に入るやろが!」
「――うるせぇ。下品な話題で怒鳴ってんじゃねーよ。鳳、お前も犬に噛まれたとでも思って忘れるんだ」
 がすりと返す拳(裏拳)にて忍足を殴りつけ、瞬殺してのけた跡部は、後輩に向かう際には不機嫌面を幾分改め、慈愛と慰めの表情を混じえた慰めの表情にて鳳に言い聞かせる。
「は、はい。すみません、跡部部長。俺、気にしないようにしますね」
「ああ、そうしろ」
 くっと口元を噛み締める鳳の肩を、傍らに近寄った跡部がぽんと叩く。その優しい感触に鳳は、「大丈夫です」とばかりに、にこりと笑みを浮かべた。ちなみに二人のすぐ脇あたりでは、忍足の身体がぷかぷかと水面――湯面に浮いていたりなぞしたが・・・・まぁちょっとしたオプションという所だろう。
 そして更にそのまた横を、すいと浮かびながら進んでいく姿があった。これがダブルスの醍醐味というのか何とやら。蛙よろしく平泳ぎで泳ぎ進んでいるのは忍足の相方である向日だ。
「向日!泳ぐんじゃねぇっ!」
「えーいーじゃん。こんなに広いんだしさー」
「ケツが浮いてんだよっ!見苦しいだろうがっ!」
「気にすんなよ、男同士なんだしさー」
「そういう問題じゃねぇっ!」
 そう。そういう問題でもない。風呂場で泳ぐというのはつまりは裸で泳ぐというわけで、背泳ぎだったら尚の事問題であるのだが、平泳ぎも充分問題なのである。上に下にとぷかぷか水面をいったりきたりする、同性の尻の動きを見守りたいと思うものは、この世にあまり存在しないだろう。
「樺地もちゃんと肩まで浸かれ。風邪ひきてぇのか」
「――っス」
 跡部の叱責にはっと顔を上げた樺地は、それでも恐る恐るといった具合に湯船に身体を沈めていく。普段自分の体躯が湯船の湯を溢れさせてしまう事を気にしているのだろう。静かにその様を見つめていた跡部であるが、やがて小さく息を吐くとなるべく穏やかなようにと口調を改め樺地に向かう。
「お前一人入った所で、溢れる湯は大した量じゃねぇ。つまんねぇ事気にすんな」
「ウ、ウス」
「樺地は身体が大きいからね。でも本当気にしないでちゃんと浸かりなよ」
「萩之助っ!てめーもタオルで風船なんか作ってんじゃねぇっ!ジローっ!そこで寝るなっ!沈むぞっ!日吉っ!いつまで黄昏てんだっ!さっさと湯船に入れっ!」
 相変わらずの仲間達のマイペースぶりにそろそろ耐えかねてきたのか、氷帝名物、跡部の怒声が湯殿に響き渡る。しかしながら叱られている方も慣れたもので、一部を除いてはむしろ嬉しそうですらあった。
 
 
 
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「髪切って何が楽って洗う時と乾かす時だよなー」
 湯上りの脱衣所で、濡れた頭をタオルで荒っぽくがしがしとやりながら、宍戸は長身の後輩に声をかけた。
「そうですね。短い方が楽ですよね、宍戸さん」
 にこにこと嬉しそうな笑みを浮かべての相槌は、決して宍戸を持ち上げる為のものではなくて、心からの信頼と尊敬が透けて見える。温和な物腰と口調の割に、性格の方は実は結構毒々しい、など評される鳳であるのだが、それはそれこれはこれ。相手によるのである。
 少なくとも、鳳は宍戸と跡部の前においては「素直で純朴な後輩―」そのものであるのだから。
「それって、俺の事を当てこすってるのかな?」
「あ?―――うわっ!何だ何だ何だっ?・・・・・・あ・・・・滝?」
 宍戸と鳳の二人の間に割り込んできた声は穏やかなものだった。が、振り向いた途端の宍戸の反応はといえば、深夜に幽霊でもあったようなもの。いや実際そんな気分であっただろう。
 何しろ典雅で知られる滝のその時の姿といえば。湯上りで濡れた髪が額からだらりと流れ、口元には乱れた髪が一筋貼りついているような状態で、何処をどう見ても、怨念抱えて恨みつらみを晴らさんとばかりに化けて出てきたようにしか見えなかったからだ。
「幽霊にでも会ったような顔だね」
「まんまだよっ!滝っ!怖ぇから、髪をさっさと上げろよな!」
 ドキドキばくばくと早鐘を打つ心臓を押さえながら、宍戸が及び腰で文句を言う。ちなみに鳳はと言えば、硬直したまま声を放つ事もできないようだ。
「怖いって・・少し前まで宍戸も似たようなものだったと思うけど?」
「自分と他人は違ぇーんだよっ!」
 滝の指摘に宍戸は噛み付かんばかり。どうやら余程驚かされたのが口惜しいようである。
 そんな彼等から少し離れた位置ではまた別の一騒動が起きている。とはいっても騒いでいるのは約一名――元気者で名高い向日だけであるのだが。その脇には付き合わされて閉口気味な日吉が居たりする。
「げーっ!嘘だろっ!壊れてんじゃねっ?」
「故障中なら張り紙がしてありますよ」
「んなの、わかんねーじゃんか」
「だったら俺が乗ってみます。―――今朝計った時と変わりません。正常ですね」
 今にも体重計に掴みかからんばかりであった向日を降ろして日吉が計測したのだが、針の揺れはしっかり正しく数値を示したようだった。
「そんなわけねーよっ!50キロ超えてんだぜっ?」
「近頃暑い暑い言ってアイスばかり1日何本も食べているからじゃないですか?ああいうものはカロリーが高いんですから、程々にしないと向日先輩の身軽さにも影響が出てきますよ」
「うーくっそー」
「・・・・・・片足上げても重さは変わらないと思いますけど」
 その指摘が聞こえないのか、向日はうーうーと唸りながら体重計の針と睨み合っている。
「・・・・・・・・・・」
 そこかしこで繰り広げられる光景は、仲間達にとってはいつものじゃれあいでしかないのだろうが。いついかなる時と場合においても、『氷帝学園』という名を背負う跡部からすると、頭痛を覚えずにはいられない。
 このまま恥を曝しまくるわけにはいかないと、低く深い溜息を吐き、いつもの如く怒鳴りつけて一喝してやろうとした跡部であったが、その肩をぽんと叩いて止めた者が居た。
「俺ら中学生やし、こんなもんやで?」
「・・・・・・・・・・忍足」
「あんま怒鳴っとると咽痛めるんとちゃう?差し入れや」
 宥めるような笑みを浮かべた忍足が差し出してきたのは、よく冷えた小瓶だった。触れるとひんやりとした温度が伝わり、跡部の熱を冷ます。
「奢りかよ」
「たまには、やな。部長さんへの感謝を込めて」
「――はっ!明日は雹でも降るかもしれねぇな」
「素直に礼言うたらええのに」
「あぁ?」
「何も言うとらん。そない凄まんといて」
 ぎろりと睨みつけると、忍足はホールドアップの如く両手を上げて降参の意を示した。
 
 
 
+++++++++++
 
 
 
 さて。普通はここで、善意の差し入れなる飲み物を、乾きにそって飲み干せば良いだけの事であるのだが。
「――――」
 牛乳瓶を前に、跡部は真剣なる表情で考え込んでいた。
 勿論表面上はそんな素振りすら見せない。カラカラと回る扇風機が送る風を身に受けながら、気怠げに涼んでいるだけのように見える。が、心の内では果てしなく困惑していたのだ。
 咽は、渇いている。風呂上りなのだから当然だ。そして、子供染みた真似で浮かれまくった仲間達を怒鳴りつけたりどやしつけたり説教したりとしたのだから、更に倍化して乾きも覚えようというものである。とにかく跡部は喉が渇いていたのだ。
 手の中には瓶がある。あまり長く握っていると温くなってしまうだろう。乳白色のそれは乳製品らしい。忍足が手渡す横で「銭湯言うたらフルーツ牛乳が基本中の基本なんやで!」と意味不明の事を抜かしていた。
 フルーツと牛乳。モノによってはまぁ合うのだろう。飲んだ事はないけれど、何事にも初めてというのはあるものだ。少なくとも市販品である以上、青学の乾が作り出す『乾汁』とかいう、怪しげな飲み物(と果たして分類できるのかは不明だが)とは違う筈だ。
「跡部、飲まねーの?牛乳嫌いじゃねーよな?」
「飲まねーとは言ってねー」
「何や、まだ飲んどらんの?」
 跡部が逡巡していると、余計な構いたがりが寄ってきた。視線で構うなと追い払い、さり気無い仕草で身体の向きを変えて二人の視界から僅かに手元をずらした。
 ぺりと包装を剥がすと丸い蓋が現れる。
「・・・・・・・・・・」
 さてしばしここで硬直ならぬ沈黙タイム。
 些細の事ではたじろがぬ跡部がこの時は腹の底から困惑中。
 何故ならば。
 何はともあれ何故ならな。
 一体これはどう開ければいいんだ・・・・?―――と、素朴かつ切実なる疑問が頭の中を渦巻いていたからだ。
 跡部は日本の給食の一部ではお約束の瓶牛乳というものにお目にかかった事がなかった。そして庶民と朝の友、明○牛乳とか森○牛乳とか、まぁ所謂配達牛乳といった類にも縁がない。よって、牛乳瓶の蓋を開けた経験すら無かったのだ。
 思いも寄らぬ場で挑戦する事となった未体験ゾーン。別に跡部とて自分が完璧などとは思っていない。知らぬ事があれば知っている者に尋ねれば良い。知るは一時の恥、知らぬは一生の恥とも言うではないか。だがしかしされど―――この場合、尋ねるべき相手に問題がある。
 すぐ近くでこちらを伺うようにしているのは宍戸と忍足。最悪のコンビだ。これが鳳か滝あたりならば、跡部も普通に問う事ができたのだが。
 まぁ良い。たかが蓋だ。そう小難しく考える事ではない。押すか引っ張るかで開く筈だ、と開き直った跡部はまるで決戦に赴くような真剣な表情で牛乳瓶へと勝負をかける事とした。
 そして―――
 
 1トライ目。
 失敗。
 
「・・・・・・・・・・・・・」
 
 気を取り直して2トライ目。
 やはり失敗。
 
「・・・・・・・・・・・・・」
 
 跡部景吾、痛恨のダブルフォルト。
 跡部は生涯の敵にでも出会った気分で牛乳瓶を睨み付けていた。
 
「跡部、何してんだ?」
「何もしてねーよ」
 こんな時ばかり目聡い宍戸が寄ってくる。当然跡部はそれをかわそうとしたのだが、もう一人の厄介者が逆サイドから攻めてくる。
「何やおかしいで?」
「おかしかねーよ」
 心配気な忍足に素っ気なく返す。気遣われているのはわかっているが、この場合は余計な世話であるのだ。
「フルーツ牛乳苦手やったん?コーヒー牛乳のがよかったんか?」
「―――あ、馬鹿」
 何気ない素振りであったが為に反応が遅れてしまった。あまりにさり気無い仕草で伸ばされてきた忍足の手であったので、防御しそこねて瓶を奪われる。
 その結果。
 沈黙と困惑は跡部のみならず、忍足の方にまで伝染した。
「――――跡部?」
「んだよ」
 小刻みに肩を震わせ、感情を抑えこんだかのような声音で問う忍足に、跡部はむっとした表情で挑戦的に返す。
「聞くまでもない気するんやけど」
「だったら聞くんじゃねぇ」
「や、一応聞いとかんと。――仕込みやないんやな?」
「てめーと一緒にすんな」
「そか。堪忍。気遣い、足らへんかった」
「・・・・・・・・・・・・」
 いっそ笑われた方がまだマシというもの。こんな風に気遣わされると、余計に屈辱を感じる。
「おい、何二人で会話してんだ?」
 一人放っておかれた宍戸がそこで割り込んできた。忍足の肩口からひょいと手元を覗き込む。そして―――
「ぶっ!どははははははっ!跡部、ダセーッ!檄ダサッ!
 幼馴染みというものは気の置けないというか時に容赦ないもので―――宍戸は遠慮仮借なく、爆笑した。
「――――――」
 前言撤回。
 やはり笑われたら笑われたで、腹の底からむかっ腹がたつ。跡部の手がきつく握り締められ、わなわなと怒りに震える事となるのだが、普段やり込められる事はあってもなかなか反撃できぬ宍戸は、この時ばかりは自分が勝者、とばかりに鬼の首でもとったかのように腹を抱えて爆笑し続ていた。
 
 
 
 
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 幼馴染というものは、時に残酷だ。容赦ないとすら言い切れる。
 気心知れた相手であるというのに加え、現在においては実力差がかけ離れているにしても、ライバル関係である事には違いない。何かのミスがあれば、そこをとことん責める遠慮なき無神経さというものが発生する。
 だが、そこに先輩・後輩というファクターが含まれると、何よりも尊敬・憧憬といった要素が紛れ込んでくるので、宍戸のように跡部の失態を嘲笑うなどといった事態にはならず、何とか手助けしようと心を砕くわけである。
 下級生の中でも、誰より跡部に心酔し、付き従う樺地ともなればその心は更に深まった。
「・・・・・・・跡部、さん・・・・」
 そっと、フルーツ牛乳の瓶を握りしめる跡部へと、樺地が己の牛乳を差し出す。大きな図体に反し、ボトルシップが趣味であるなど、器用で繊細なところのある樺地の手の中にある牛乳瓶は、綺麗に蓋が剥がされていた。ただし、樺地の図体が図体であるので、牛乳瓶というよりはヤクル○に見えなくもなかったが。
「―――樺地」
「・・・・あの・・・・これ・・・・を・・・・」
「すまねぇな、樺地。気ぃ使わせちまって。だが、俺様も跡部景吾だ。たかだか牛乳瓶如きに遅れを取るわけにはいかねぇ」
「・・・・・・跡部、さん」
 胸を逸らし、後光すら背負って傲然と言い切る跡部に樺地は目元を潤ませる。そして少しばかり離れた位置ではある意味では純朴さを喪っていない鳳が、「さすがは跡部部長」などと感心することしきり。さすがにそこの域まで達していない日吉は、「こいつら馬鹿じゃないのか?」とばかりに呆れた視線を向けていたのだが、その手の中には樺地に出遅れ差出し損ねた開封済みの牛乳瓶があったりした。
 樺地と鳳が信頼の視線を向ける中。今一人の下級生たる日吉は冷ややかさを保とうとしつつも何処か心配気に本音が隠しきれない視線を向ける状況において。跡部は2度の失敗を経た牛乳瓶の開封に再トライを試みた。
 基本的には何でもできる跡部様である。1度や2度の失敗があっても3度は繰り返さない。
 だがしかし。それはベストの状態――物が物として正しき状態であればこそ、前回の経験が生きるというもので。前のミスを引きずり、より困難な状態となっている事を、哀しいかな跡部は知らなかった。
 牛乳瓶の蓋というものは、丈夫なものではない。一度の失敗により、跡部は表面をめくり上げてしまった。二度目の失敗により、反対側の方までめくり上げてしまった。その結果、表層部位を剥がしきってしまい、牛乳瓶の蓋は常よりハーフな状況――つまりは薄くなってしまっていた。
 そうなれば、おのずと結果は知れたというもので。気合を込めて3度目の牛乳瓶開封に挑戦した跡部であったのだが・・・・・・・・・・・無情にも牛乳瓶の蓋は、その負荷に耐え切る事ができなかった。
 つまりは、アレである。ずぼっと音を立て、跡部のテニス選手としては優美なる長く華麗な人差し指は―――瓶の中へと・・・・つまりは液体の中へとはまり込んだのだった。それは、本来剥がして取るべき蓋と同時に入水状態という事で、サッカーならば自殺点。水泳ならばフライング飛び込み。バイオリンならば弦が切れ、野球ならばバットすっぽ抜けピッチャー直撃――――ぐらいの痛恨の失敗であっただろうか。
 
 何とも言えない微妙に気まずい空気が、銭湯の脱衣所にて蔓延していく。その片隅にて、それが口癖である為ついつい口にしてしまうようだが、それが故に意味が繋がらぬ状態となっている滝の「やるねー」という言葉が虚しく響いていた。そしてその手の中にはこういう時の必殺アイテム――蓋を開けるにゃこれ使え―――と、用意されている蓋開け用のピンが転がされているのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
2006.07.02 / 改稿
 (背景:境界線シンドローム 様)
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