存在証明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ポツ、と降り出した雨が窓を叩く。外はすっかり暗くなっていた。
 携帯電話を取り出し、表示時刻を調べると早い家では夕食の頃合だった。跡部の自宅では家族全員が揃う事など滅多になく、個々の時間に合わせて食事を供されるので問題はないが、このまま此処に居れば「夕食、食べていきなさいな」と微笑みを浮かべる手塚の母彩菜の言葉に逆らえなくなるだろう。
 別に手塚家の食事が口に合わないとかそういうわけではない。が、あまり家族の団欒に縁の無かった身としては少々面映いというか、微妙に覚悟が必要なのだ。決して楽しくないわけではないが――今の気分としてはできれば避けたい、という所か。
 朝からどうにも落ち着かない気分を味わっていた。何かが零れ落ちていくような‥‥何かを忘れてしまっているような‥‥授業を受けていてもその焦燥感が消えず、あまり授業の中味に身が入らなかった。ただし、眉間に皺を寄せて明らかに不機嫌のオーラを放っていたようで、教師も注意すらしてこなかったが。後で忍足に「せんせ脅したらあかんでー」とこっそり囁かれたぐらいだ。
 テニス部の方に顔を出す気にもなれず(部は引退しているが、請われて時折指導にあたってはいる)、さりとてジムでトレーニングをする気にもなれず、気づけば足は手塚の家の方へと向いていた。突然行くのもどうかとも思ったが海外の、マイナーどころだが手塚が好みそうな選手の試合を撮ったビデオ(手塚家は物持ちが良いのでビデオデッキはまだまだ現役続行中である)があったので、丁度手土産になりそうだった。
 突然の訪問にも手塚は驚く事なくいつも通りに歓迎しているのか迷惑しているのか全く読み取れない顔で「よく来たな」と迎え入れてくれた。あれこれ考えても無駄なので、手塚に関しては言葉通りに受け入れるようにしている。本気で迷惑していれば言葉と態度に出す筈であろうから。途中思いついて購入した洋菓子を「彩菜さんへ」と差し出すと「気にしなくていい」と押し返すような素振りを見せる手塚であったが、跡部としてはそうもいかない。「こーいうのは礼儀なんだよ」と断固として押し付けると手塚はもう逆らわなかった。
 沈黙を苦手とする二人でもないので会話が途切れ事があっても気まずさは感じない。むしろ騒がしく場を盛り立てる必要のない関係は心地良くすらあるのだ。 そんな二人でもテニスの話を始めれば話題が尽きる事もなく、気づけば時間は飛ぶように過ぎていった。
 
「――帰るわ」
「そうか」
 
 駅まで送ろうかという手塚の言葉を「玄関まで良い」と遮る。お互い立派な体格の身の上。そんな気遣いは無用だろと笑いかけると、「お前は無駄に絡まれそうだ」と余計な事を言ってきたりする。まるで跡部が無為無作為に周囲を煽っているかのようだ。
 腕っ節に自信が無いわけではないが、喧嘩の類はスポーツ選手には御法度だ。怪我云々の前に、教育委員会がとにかく煩い。跡部の場合、目立ちすぎる容姿という事もあって、一度騒ぎを起こせばまずばれる。
「俺様は平和主義者なんだぜ?」と鼻で笑うように言えば、憎たらしい事に手塚は「そうは見えないから心配なのだが‥」など返してくる。むっとはくるが心配という言葉にそれも相殺されたような気もするから不思議なものだ。お互いが学園代表というような立場にあったので、周囲も自分達も長らくライバル関係だけを貫いてきたが、ここ最近は少し突っ込み良好な友人関係を築いている。氷帝の仲間達とは少し違う、実力の拮抗したその存在は、今まで跡部が何処かに抱いてきた空虚な穴を埋めてくれるようであった。 時にむかっ腹の立つ言動を放たれる事はあるのだが―――、とそこまで考えて、むかっ腹といえばもう一人居たな、と思い出す。
 ニ学年下の負けん気の強い小生意気な青学一年生。最初は向こう気の強いだけのガキだと思っていた。が、その内に、そいつはメキメキと頭角を現してきた。類稀な驚嘆すべき天性とも言えるテニスセンスと飽くなき闘争心。誰を相手にしようとも一歩も引かない不遜な態度。腹の立つ程の糞生意気さは同時に胸が空くような爽快感ももたらす。跡部はそういう奴が嫌いではない。むしろ好んでいる。留まる事を知らず、飽くなき挑戦を続け、高みだけを目指していく真っ直ぐな精神は得難いものだ。
 小さな世界に満足し、他人の失敗をあげつらい、足を引っ張る事に興じる輩を見てくると、正直な所、その清冽さに震えが来る程の喜びを感じるのだ。
 誰に相談した事もないけれど、跡部はずっと悩みを抱いていた。自分の望みはただひとつ。テニスを思う存分やる事だった。だが、己の立場がそれをいつまでも許しはしない事もよくわかっていた。幼い頃より言い聞かされてきたせいもある。また自ら、それを責任と感じるようになったのも随分と前の事だ。 母が自分の他には子供を作れない体であると(まだ子供の身である跡部にそういう事を聞かせてくる親戚筋がいるのだ)聞いてからは、自分一人が跡部家の跡取りであるのだと自覚も新たにした。
 自ら立とうとしなくとも、テニス部においては200名の代表たる部長を任命され、また学内においては生徒会長を信任される。黙っていてもついてくる肩書きは跡部が跡部として存在している限り、この後も増えていく一方だろう。 他人に使われるよりは、思うように動かす方が性に合っているし、また自分がついつい他人の世話を焼いてしまう面がある事も自覚している。
 言動がぶっきらぼうで高圧的であるというのに、他人の事など考えないただの俺様な完璧主義者と見る者も少なくないというのに、現実の所跡部の周囲から人が絶えた事はない。何か知らないが、好かれるのだ。ジローのように懐いてきたり、忍足のように娯楽がって構ってきたりする。
 それもひとつのカリスマであるのだが、その点においては跡部に自覚はない。むしろ周囲が気づかせないようにしているというか。忍足や滝あたりに言わせると「勿体ないやん」「勿体ないよね」とある。
 半ば無意識の内に、跡部は周囲に気を向けている。それは近況を知っては、「――やるじゃねぇのよ」と、確認して満足する程度であるが。 この時もそういやどうしていやがる?と、学校が異なるので近頃はあまり耳にしない越前の事をふと思い出しただけだった。
 
「なぁ手塚」
「何だ?」
 玄関先で靴を履きながら、跡部は首だけで仰ぎ見るように振向いた。
「あの糞生意気なガキ・・‥一年、どうしてる?」
「一年?珍しいな。お前がうちの一年生を気にかけるとは。何か氷帝の部員と諍いがあったか?」
「――――は?」
 今ひとつ会話に噛み合わないものを感じながら、跡部は靴を履き終わった為借りていた靴べラを返す。そのまま無意識に扉に手を開け押し出そうとした所、ぐいと引かれて反動でたたらを踏みそうになった。
「―――ちっ!」
「跡部?」
「部長っ!!!」
 慌てて手を差し出してきた手塚の手の先。思わず扉に手をついた跡部が睨むように見上げた先。その先には先程跡部が思い浮かべた小柄な少年の姿があった。
 随分と走ってきたのか荒い息をつき、トレードマークの帽子からはしばらく前に降り出した雨の煽りかポタポタと水を滴らせている。 いつになく焦った様子に跡部は張り上げようとした言葉を呑んだ。
 奇妙な沈黙。しんと三者が何かのタイミングを掴むかのように見詰め合っている。正しくは越前は手塚のみに視線を――何処か縋るような――向けていただけだし、手塚はといえば臥不審そうに眉目を顰めてその闖入者を見つめている状態で、跡部は蚊帳の外に置かれた傍観者の位置にて二人を見つめているような感である。
 その、コップの淵までぎりぎりに水を張ったかのような緊迫感を伴う緊張感を破ったのは、手塚だった。
「――――誰だ?」
?!
 不思議そうに問う手塚国光。そこに作為の影は全くない。
 何だ?と跡部が状況を把握するより早くに反応したのは越前の方だった。ばっと、伏せがちだった顔を上げ、一瞬だけ手塚を凝視した顔には酷く傷ついたような表情が浮かんでいた。それを跡部が目にしたのは一瞬だけ。泣き出しそうな面だな、と思うより早く、越前はばっと身を翻して飛び出していった。
「‥‥・・一体何だってんだ‥‥?」
「お前の知り合いか?」
「ぁあ?っ、何言ってやがんだ?てめぇ?」
「だが。『部長』と言っていただろう?彼は」
「――――――」
 先程同様手塚の様子に作為めいたものはない。もしや担がれているのか?と思った跡部の疑いは消し去る他はなかった。
 どう反応して良いのかわからず、手塚から視線を逸らした跡部は足元を見た。そこには濡れた小さな足跡が二つ残っており、開け放たれた扉の先ではザーザーと雨が降り続けている。雨の帳の先に、走り去った小さな背中を見出す事はできなかった。
 
 
 
 
 
[ date: 2005/11/06 ]
 
 
 
 
 
 
 
ネタ振り 書き逃げプロローグ第一段 『存在証明』 ――でした。
書き逃げなので続かない。
 
 
「――越前?」
「跡部、サン」
「‥‥どーした。しけた面しやがって。てめぇらしくねーぜ」
「・・・・俺、わかるんスか?」
「ああ?青学の小生意気な一年だろ」
「名前、あるっス。‥‥覚えて、ないんスか?」
「―――越前」
「もう一度、呼んで」
「越前。これでいいのか?」
「‥‥‥っ‥・・」
「―――うち、来い」
「‥‥‥・・・」
「んのままじゃ風邪引くだろうが。拾ってやるから、来な」
「・・・・名前、呼んでよ」
「‥・・・・・(何甘えてやがんだか。――まぁいい)おら、行くぞ、リョーマ
「――っス」
 
 その日、跡部は濡れそぼった子猫のように蹲っていた越前を拾い上げた。