神はサイコロを振らない
the third day
――――残された時間は、あと・・・・・・・・X日
「戻るとは、どういう事だ?」
問う声は荒く、非難の響きすらあった。
詰寄られた人物はと言えば、相手の興奮に動じる事もな淡々と言葉を紡ぐ。その冷静さは手塚にとって頼りとするものではあったが、今この際には面憎くなる程に忌々しい。
「言葉通りの意味だ。彼等に残された時間はあと・・・・8日程だ」
突き放すように言い放つ乾に手塚は見据える眼差しをきつくした。興味ある研究対象が如くの口調に苛立ちを感じる。
それでも、だ。
誰もが諦めたこの10年間。彼等が戻ってくると主張したのは乾だけだった。その理論の根拠に頷く事はできなかったものの、微かな希望を捨て切れなかったとは言い切れない。
破片一つ見つからない状況に、何が起きたのか解明する手がかりすらない状況に、荒唐無稽なその話は到底信じられないものであったのだが、もしも、と捨て切れなかった光明。
そして彼等は戻ってきた。10年という歳月を経て、乾の説を正しいと立証した。
だから―――
その乾の言葉を頭から捨て去る事はできない。
「――――もう少し、詳しく聞きたい」
手塚は、溢れそうな激情を抑え、平静さを保つ。
一言も聞き漏らすまいと、真剣な面持ちで乾が次に発する言葉を待った。
ラウンジで待ち合わせていた跡部をバーへと誘う。
他に人気は無い。奇跡の生還を果たした彼等に対して、マスコミの類が貪欲に押し寄せた。けれども、ここのホテルは跡部の家がホテルを貸切って、報道陣は完全にシャットアウトされている。跡部財閥の財力にはそれだけの力があった。
彼等に関わる事(それが保護であったとしても)東洋航空側は最初難色を示したが、相手の曖昧な態度にじれた跡部の祖父母が強硬手段に踏み切った。
東洋航空を買収したのだ。それは当然利益を求めての事ではない。手段構わずなりふり構わず――といった態で、湯水の如く金を投じたらしい。この買収の際に跡部家が投じた金は天文学的な数値とも聞く。
表面だけを見れば、金で横っ面を叩いたようなものだ。だが、じれていたのは自分達も同じ。家族会すらも引き合わせようとせず、戻ってきた彼等を抱え込んだままの、体面ばかりを考える航空会社側にどれだけ憤りを感じただろう。跡部家の買収に関しては、他の乗客の家族も含めて喝采を上げたものだ。そうして頭を抑えた事で、ようやく面会が叶うようにもなったし、一部の乗客は家族の元に戻る準備に入っている。跡部の方も、夜が明ければ自宅に戻る予定だった。こうして自由に会える機会は今をおいては他に無かった。
そう告げるとしばらく逡巡した様子であったが、跡部は手塚の言い分を受け入れて面会に応じてくれた。確かに家に戻ればしばらくは自由に動けないだろうしな、と軽く笑う口調が受話器ごしに耳を擽った。そのまま駆け込むようにホテルに現れた手塚を見て、跡部は一瞬呆けたように凝視し、次いで「お前、何処からかけて来たんだ?」と呆れたように聞いた。それに対して手塚が「ホテルの外だ」と返すと思い切り笑われた。「・・・・お前っ・・その天然ぶり、ちっとも変わってねぇ・・・・」と、涙すら目元に滲ませて。
「未成年だぜ?」
「実年齢は成人だろう」
「それで話が通じればな。ま、お前の経歴に傷つけたくねぇし、ノンアルコールにしておく」
「そうか」
跡部の言葉に手塚は薄い笑みを浮かべた。その主張は、呑めなくないと言っているようなものだ。お堅い事で知れる手塚であったが、それを咎めようとは思わない。手塚の方こそ酔い潰れたい心境であるからだ。
横目で伺うように跡部の顔を眺める。薄暗い光の下でほんのり浮かぶ白い顔。記憶の中そのままに・・・・それでいて、違う。思い出は美化されるものと人は言うけれど、跡部に関してはそれは正しくない。追憶の中にある姿よりも更に色鮮やかな存在が此処にいる。
「んだよ」
手塚の視線が煩かったのか、跡部は咎めるような視線を向けてきた。
「すまない。まだ、信じられなくてな」
「そりゃ、そうだろうな。頭の硬いてめーなら尚更か」
「・・・・・・真田程ではなかろう」
「真田、ね。あいつも相変わらずそうだったな。いや、頑固さに磨きかかったんじゃねぇ?」
「会ったのか?」
「いや。電話で話をしただけだ。ったく、何で俺が責められるんだ?筋違いだろ?」
ぶつぶつと文句を言い出した跡部の話からすると、真田は跡部に対して「この10年間何処へ姿をくらませていたのだ」と恨み言のようにくどくどと言ったらしい。文句を言いたい気持ちはわかるが、それは確かに筋が違う。跡部にしても越前にしても本人達にはどうしようもない話だったのだ。乾の説が正しいとするならば、跡部と越前を乗せた機は、時空の狭間に飲み込まれていたのだから。
カラン、とグラスの中で氷が鳴った。跡部の白い手の中に、空となったグラスがある。果汁の痕跡のみを残したグラスがある。
「・・・・・・・・・・・・・・」
手塚は乾の言葉を反芻していた。戻ってきた彼等は再び消えてしまうという話を。何一つ残さずに、思い出のみを残して消えてしまうのだと。ただ自分達の中に、この数日間の記憶を残し、彼等の中には何も残らない。姿も、記憶も、痕跡すら残さずにその存在が消えるのだと、乾が言う。
「―――馬鹿な、」
「どうした?」
「すまない。少しばかり不安定なようだ。不安なのはお前の方だろうに、」
「別に。不安なんて抱いちゃいねーぜ。なるようにしかならねぇ。できる事はやる。だが、力の及ばねぇ範囲に関しては、成り行きに任せるしかねぇ」
「・・・・・・・・・・・」
ふっと笑う跡部の笑みは綺麗過ぎた。そのまま溶けて消えてしまうのではないかと思える程に。違う。まだ早い。例え乾の説が正しいとしても、まだ消えるには早いのだ。
「跡部」
「んだよ」
「触れても、いいか?」
「・・・・・・お前・・・・・・。構わねぇけど。んかよ、口説いてる、みてーだぜ?」
一瞬黙り込んだ跡部であったが、手塚の言葉の本質を理解すると同時にからかうような口調でそんな事を言ってきた。手塚の抱く不安を吹き飛ばすかのように。
もしかすると、跡部は気づいているのかもしれない。元々聡い男だ。たとえ10年後の世界であろうとも、あっさりと馴染み、そして自分の求める物を得るだろう。そして、跡部ならば自らの置かれた状況を真っ先に調べようとする事も間違いないだろう。
手を、伸ばす。かつてライバルとして鬩ぎ合った、鮮烈なスマッシュを放つ手にそっと触れる。
僅かに低い体温。触れている内に熱が移る。込み上げてくる感情に、手塚は触れた手に力を込めた。
10年という月日の間に、触れた手の大きさにすら時間の流れを感じる。一瞬強張った跡部の反応に気づかないふりをして、手塚は一回りは小さい跡部の手を強く握った。そのまま離さないとばかりに。
「―――おい」
「・・・・・・このまま・・・・もう少し、だけ・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
非難する声に哀願するように求めた。離したくなかったのだ。
この存在を確かなものと、心が納得するまでは。
「―――まだ、言っていなかったな」
「アァ?」
「―――お帰り」
「・・・・・・・・・・・」
今更ではあるのだが。よくよく思い出してみれば、手塚はまだその言葉を跡部に言っていなかった。状況に流されるままに居たという事もあるが、肝心な事を伝えていないから、これほど不安定なのかもしれないと思えた。この先、どうなるかはまだ知れない。乾の説の通りに本当に、跡部は再び消えてしまうのかもしれない。それでも――変わらぬ事実がある。
彼は、戻ってきたのだ。自分の居るこの世界に。
帰ってきたのだ。
10年という時を超えて。
手塚の言葉を受けて、跡部はしばらくの間、彫像のように微動だにすることなく沈黙していた。
先程まで浮かべていた余裕ある笑みがない。いや、表情という表情が消えうせていた。
記憶の中でより鮮やかであった蒼の瞳が伏せられ、ゆっくりとまた開かれる。
そして、跡部はゆっくりと手塚の方へと顔の向きを変えた。
「・・・・・・・・・・・・・・『ただいま』・・・・・・・とでも、言えってか?馬鹿だろ、お前」
「ああ、そうかもしれないな」
「・・・・・・・・・・は」
跡部が呆れたように、薄く笑む。何処か力の抜けた表情で。
毅然とした態度しか知らぬ跡部がとても弱々しく見えるのは、薄暗い光の下故の気の迷いなのだろうか。
揺らめく幻想的な蒼い瞳が泣いているようにも見えたのは――手塚の気のせいだったのだろうか。
[ 2006.02.02 ]
書散らしプロットモドキ第2段
微塚跡風。