或る音楽教師の暮れ沈む放課後
 
 
 
 
 
 扉越しに洩れ聴こえる微かな旋律は、足を止め、聴き入るに値する調べではあった。
 普段の跡部ならば流れる音の波に身を任せ、自らの多忙における切り詰められた時間配分すらも犠牲にしてでも一曲奏で終わるまで壁に背を預けて待っただろう。それは、跡部にとっても損ある選択ではなく、そうしたいという選択に値するからだ。
 しかし、この日の跡部は違った。ここまで歩いてくる際に浮かべていた厳しい表情のまま、歩く速度も緩めずに音楽室へと突き進んでいった。
 扉の前で足を止め、コツコツと中の人物へと入室を知らせる。
 表情を消し、平坦な声音をもって「失礼します」と一言断りを入れると跡部は返事を待つ事なく扉を開いた。
 
 ここは一体どこのサロンだ?とばかりに優雅且つ物憂げなムードを漂わせながら、高級スーツを身に纏い調律の良く行き届いたピアノの鍵盤に指を滑らせるのは、様々な方面に名の知れた氷帝学園内においても名物教師とその名が高い男性教諭、榊太郎43。音楽教師にしてテニス部顧問という変り種である。
 
「――――何か問題が起きたのか?」
「起きては、いません」
「そうか」
 
 榊の問いかけを否定した跡部の様子に何かただならぬものを感じたらしい榊は、譜面に向けていた視線をゆっくりと跡部に移す。
 基本的に跡部は榊に対して控えめな行動を取る事が多い。自分がこうと思った事には譲らぬ頑固さもあるが、理路整然と利点とリスクを並べ立て、どちらの選択が正しいか榊に選択を委ねるような形を取る。大抵の場合、跡部の主張が通る事になるのだが、それは跡部が確信を持った時点で榊に進言してくるのだから当然の結果であるとも言えるだろう。
 教師達の間で跡部の評価は高い。有能な生徒会長で、成績も首席の地位を譲らず、相手を立てる事においては年齢を疑う程の卒の無さだ。高慢・倣岸な態度を非難されることもあるが、それはあくまで対外的なものであって、基本的に跡部は礼儀正しい。だからこそ、このように榊の都合に頓着せず押しかけてくるというのは実に珍しい事だった。
 
「何か心配事でもできたのか」
「いいえ」
「相談事か」
「いいえ」
「誰かに私を呼んで来て欲しいと頼まれたのか」
「いいえ」
「そうか」
 
 あくまで静かな回答に拍子抜けしつつ、榊は再びピアノへと向き直った。
 余程急ぎの件なら話は別だが、そうでないならば曲を奏でながらも話をする事はできる。部内の報告を跡部が行う際も、大体そういった状態で行われてきた。
 
 跡部が黙り込んだままであるので、榊は手持ち無沙汰というわけではないが先程の続きを弾き始める。そうして意識が音の世界に飲み込まれていきそうになった瞬間、まるで狙いすましたかのように跡部がぽつりと言葉を発した。
 けして張り上げた声ではない。けれども不思議によく通る跡部の声は、榊の奏でるピアノの音に紛れ消える事なく耳に届く。
 
「――――今朝ほどの事なのですが」
 
 ボロン
 
 何十回も、何百回も弾き慣らした曲において、榊の指が滑る。ありえない失態だった。
 
 
「・・・・・・・・何という事だ、会議があるのを忘れていたとは。跡部、悪いが話は後に――」
「職員会議でしたら明後日に延期との事です。今朝のうちに変更の知らせを廻したそうですが」
「そ、そうか。聞き漏らしていたようだ。すまない。余計な手間を取るところだったようだ」
「いいえ。 『多忙極まる』 榊監督の事ですから、お時間が空いているかまず確認してきただけです」
「そ、そうか」
「お気になさらず」
「・・・・・・・・うむ」
 
 妙に柔らかな物言いに榊のあまり変わらぬ表情が微妙にひくつく。それは、引き攣っているといって良い表情かもしれない。
 
 
「―――自転車が」
   
 ジャーンッ!!
 
 
 落ち着きを取戻そうとでもするかのように再び鍵盤に指を乗せた榊だったが、曲とは言えない指慣らしでもない鍵盤を叩きつけような音を放ってしまう。いや実際、叩きつけたようなものだった。
 
「・・・・じ、自転車が・・・・ど、どうかしたのか・・・・?」
「―――いえ。この付近には自転車屋が存在しませんので修理の際には少々手間がかかるかと」
「・・・・・・うむ。自転車通学の者も少なくはない。そういった要望が出ているのならば、次の会議の際にでも業者の導入を検討しよう」
「特には要望は出てはおりませんが」
「・・・・・そうか」
「先程、歪みへこんだ自転車を校内で見かけまして、あれでは普通に乗って帰るのが難しいだろうと」
「そ、それは・・・うむ。難しいかもしれないな。いやだが、その生徒もわかってはいるだろう。自転車業者に頼めば持ち運んでくれるだろうから、お前が気にする話ではない」
「そうですね」
「・・・・・・・・」
 
 何だかわらかない。わからないのだが・・・・不穏な空気を感じ取りつつある榊はピアノに向かった体の向きを動かす事ができなくなっていた。それはつまり、跡部の方を向く事ができないという話になる。
 
「先程忍足達が――」
「お、忍足達がど、どうかしたのか?」
「―――自分の所にやって来ましたので、本日の練習メニューを指示しておきました」
「そ、そうか。部の方はいつも通り跡部に任せる。事後の報告を欠かさぬように」
「はい。今日の報告は忍足になると思いますが。自分は少々用事がありますので」
「・・・・・・・・珍しいな。部よりも優先する事があるとは。生徒会の方で大きな仕事でも入ったのか?」
「いいえ。そちらの方は滞りはありません。今日は、優先すべき事がありますので」
「そうか。行って良し」
 
 つまりは部を休む報告だったのかと、内心安堵しながらようやく落ち着いてきた榊は、お決まりのポーズをもって跡部の退出を促そうとした。
 だがしかし。
 跡部は全くこの場を立去ろうとはしない。じっと、静かにその青い瞳を榊に向けてくるばかりであった。
 
「――――話し合いを、優先しようと、思っています」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「宜しいですね、監督?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 
 
 榊は跡部の年相応たる笑みは見た事がなかった。同年代の生徒達の中でも一際大人びた跡部の事、その笑みはすでに計算されたもので、苦笑気味の薄い笑いや、明らかに儀礼向きの礼儀正しい微笑み、そして他校生(主にライバル校の選手達)へと向ける挑戦的な笑み。そういったものは数多く目にしてきた。
 しかしながら―――跡部が入学してよりこのような―――にこりと音を立てそうな、無邪気さすら伴った穏やかなる菩薩のようなこの微笑はいまだかつて見た事がない。
 とてもとても柔らかな恐らくは女性とあたりは正視した途端胸を高鳴らせるどころか呆然と息を止め立ち尽くすであろう程に魅力的な微笑みであるのだが――――榊は鋭く鋭利なナイフの如く伸びた爪を喉元に突き立てられているような気分であった。
 今この時榊は、一生徒でしかない筈の跡部に対して恐怖なるものを味わっていた。
 
 
「・・・・・・・・う、・・・・い、いや・・・・」
「・・・・・・・・・」
「そ、その・・・・だな。ここの音楽室の使用時間はあと少し、なのだ。貸しきりたいという要望があってな」
「監督が三時間程専用で使用する許可申請を出していると伺っていますが?」
「む。い、いやそれは、その・・・・」
「本日は監督の愛車であるジャガーが駐車場にありませんでしたね」
「む、それは、その・・・・修理に出している」
「ポルシェもですか?」
「そ、そうだ」
「それでは本日はバスで来られたのですか?」
「・・・・・・・・・・うむ」
 
 じぃと逸らされる事なく見据えられた視線に絡めとられたかの如く、榊は身動きできない状態となっていた。
 額からはじわりと汗が滲み出てくる。逆に背中はひんやりとした汗が伝った。
 
「監督」
「・・・・・・・・・・・・・うむ」
「心配せずとも、時間はたっぷりとあります。しばらくこちらの方には来られないよう、先生方にもお話してありますので」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ゆっくり、話し合いましょうか」
「・・・・・・・・・・・・・」
 
 
 跡部の促しに頷く事以外何ができるだろうか。榊にとって長い、長い放課後は、今始まったばかりなのだった。
 
 
 
[ date: 2007/02/25 ]
 
 
 
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